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  映像研究

言葉

・202011040833。熟睡できた自分を讃えながら朝から作業を始めようとする。始めようとする前に準備運動としてメモをしておくことも良い。眠りの改善を試みた昨晩。気温や体温に対して寝巻きの素材が過剰に熱を溜め込んでいたのではないかという気づき。季節を先取りするショップ店員のような気持ちでボアのパンツとか履いていたことを反省。ビールをほどほどにしてお茶を飲む。薄手の寝巻きに着替えてストレッチポールに乗り身体を開く。お腹側の熱が背中側に染み通ることを想像しながら目を閉じる。家族には犬を数えることを指南された。色々な犬種がいるので飽きない。

 

・夕食を食べながらNHKオンデマンド筒美京平の追悼番組を見る。「飽きさせないアレンジ」という解説になるほどと思う。時代を下りながら1994年『人魚』で番組が終わったが、まだその先に小沢健二鈴木蘭々藤井隆もいるのにと思う。思うのは自分の世代の問題か。確かに1970年代から80年代にかけての圧倒的な仕事があり、それらと比較すると90年代以降の仕事は既に「折り返した後のセルフカバー」の様相を呈しているのかもしれない。映像を通して見る松本隆が話している感じが良かった。流れでYoutubeでワイドショーの筒美京平追悼特集を見るが酷い内容だった。しかしそれはコメントする人や番組制作者の問題であると同時に、そもそも死んだ人について語ることは難しいのだと思う。死んだ人の残した言葉や作品について語ることも難しい。これは自分の研究の問題でもあった。

 

・研究は基本的に過去に生きた人から学ぶことだから、誰かが死んだ後に残った言葉や作品から、その人の生を語ることになる。これから進める研究について、そのことの責任を考えている。伝記を書こうとしているわけではない。では何を。「書く対象に半分なる」とは自分がいただいた助言で確かにそうかもしれないと思いながら、しかしそのためにはどうしたら良いのだろうかと考えてもいる。書く対象に向けてコメントするのでもなく、書く対象に解説を添付するのでもなく、書く対象が持っていたはずの動機に近づき、そして自分もまたそう考えてみる。それは共感とも異なるのだろう。強いて言えば「学ぶ」ということか。しかし「書く対象に向けてコメントすること」や「書く対象に解説を添付すること」が批評だと考えられたりもする。そうではない方法で読みながら書くためにはどうしたら良いのか。

 

・自分がいま思う/採用している方法の一つは対象が生きた環境を知ること。誰も時代の情勢や経済的な状況から完全に自由に思考し活動していないから、その周囲にあった物事を想像しようとする。そして一つは言葉を書き写すこと。読むことではなく書いてみることで思考する順序や速度に近づくことができるかもしれない。いま一つは作品について言葉にすること。その作品を描写することで、それがどのような物/イメージであるのかが浮かび上がる。それを進める。中断。

 

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