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  映像研究

届く本を待ちながら読む本

・202011061004。お願いした再配達で届く本を待ちながら昨日届いた本を読む。本を買い続けている。友人にお勧めされるがままに買い、Amazonに提案される本も買い、本に書かれている本を買う。本だけはいくら買っても許されると思っていた。あるいは現在進行形でそう思っている。2020年は本を買い集める年だった。2021年は2020年に買い集めた本を読む年になるだろう。そんな言い方で誰を説得しようとしているのか。

 

・『世界芸術写真史』という本が届く。写真の歴史についての本を集めている。まだそれらを考察の対象にできるほど読めていないが、それぞれの見取り図で語られている歴史を並置して浮かびかがってくるもの・感じられることもあるように思う。編集に山岸亨子という名を見つけて、大学一年のまだ勉強の仕方も何もわからなかった頃に唯一休まず通った、火曜日五限「現代写真論」という授業のことを思い出す。いまもう一度あの講義を聞きたいと思うがそれは叶わないから、自分で調べて自分で語りなおすしかない。

 

・写真史の出版が1980年代に集中している(ように思える)のは「写真150年」という事情もあるのだろうか。確か2000年前後にスタジオボイスという雑誌が他に先駆けて「80年代特集」を組んだ際の巻頭に「『80年代特集』という発想自体が80年代的だ」というような内容のことを書いていて(うろおぼえ)、そのことがずっと記憶に残っている。そうなのか。しかし何となくその示すところは理解できるように思う。リバイバル・リサイクルということは普遍的な出来事であるにせよ、アーカイヴ(のテクノロジー)が急速に進んだのがその時代ではなかったか。あるいは「20世紀の総括」という意識もはたらいていたのだろうか。20世紀が「映像の世紀」であるならば、その時空間を映像によって総括することは必然である。

 

・「写真150年」を大きく三つくらいに分けてとらえてみるならば、19世紀の写真は完全なものに見える。写真は生み出されたその時点で完全な存在だったという感じがする。2020年のこの時代の色々な情報を見聞きして生活していると「技術が進み映像の解像度は鮮明になる」などと考えがちだけれども、写真はそもそもが「自然の鉛筆」なのであって、人体が何らかの物質によって構成されているのと同じように、物質によって構成されている。自然の完全を写真の完全に移す(写す)ことに向けて、技術が統制されているものとしての、19世紀に撮影されたこれらの写真が宿す力とは、いったい何かと考えている。

 

・20世紀の前半は「表現」ということが、大きな問いとして、主には先進国と言われる社会に、浮かび上がったのだろうことを、その時代に撮られた写真を見ながら考える。人工と自然が拮抗する風景のただなかで、あらゆることが試されている。試す人間の運動が想像される。だから、日本語の「表現」や「芸術」も、現在発せられる書かれるその語の感じとは違うように思われる。一方で20世紀の後半はまた違った雰囲気のイメージが、少なくとも「写真史」には揚げられている。個別具体的なテーマに取り組む姿勢が明らかではある。アーカイヴ(のテクノロジー)という動機も垣間見えるのだろうか。客観的に考えることは難しい。

 

・ギュスターヴ・ル・グレイという人が1858年に撮影したとされる「フォンティーヌブローの森のぶなの木」と記された写真を見る。勉強会をしている友人から指摘されて自分も気になっていた一枚のイメージ。完全な写真だと思う。「写真によって何かを伝える」意識など一切入り込む余地のない撮影行為が想像される。何も語っていない。というか「語る/語らない」という問題とは関係のない次元で、イメージが存在している。木が存在するのと同じように写真が存在する。丁寧に慎重に準備をして、機械と薬品を扱うことで、このイメージを存在させる=創造することができるのが、写真術なのだった。

 

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