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  映像研究

海と写真

・後から書いておく記憶。9/23(金・祝)。夏のはじめに計画した、神奈川県立近代美術館葉山の『Alec Soth Gathered Leaves』に行くことができた。友人たちと総勢6人で。

 

・7:45に妻と家を出て二度も高速入口を乗り間違えつつ開館の9:30には到着できた。友人たちとも合流。もうひとりの友人を待ちながらしばらく海岸を散歩する。海に来るとつい「海だ」と口にする。写真を撮る。おやつを食べて11:00に美術館へ。この展示を見た何人かの方が書いていたとおり、事前に映像作品の席を確保する。1時間写真を見て、1時間映像作品を見て、その後もうひと回り写真を見た。天井の広い空間で、適度に自然光も入ってきて、大きなサイズの写真を見ることは、心地よい。友人から「発色現像方式印画」とそうでないプリントの違いについて解説をしてもらいながら鑑賞する。目が、知覚が、試されている感じの鑑賞。

 

・友人おすすめの「ピスカリオ」でランチしながら(運転しない友人がするするワインを飲むのをじっと見つめながら)感想を交換するなど。

 

・〈Broken Manual〉の主題でもあり映像作品で作者自身が何度も言葉にする「hide(隠れること)」とは何か。積極的に隠れること、あるいは、隠れざるを得ないこと、そうした生活(の相貌)というものが確かにある。自分の場合は、それをめぐって考えていた。2000年代の中盤から後半には、特にそうした雰囲気が色濃かったのではないかと思い出す。真っ先に思い出したのは、ドキュメンタリー繋がりでマイケル・ムーア『シッコ』だったが、フィクションならば『Into the Wild』があり、それから間接的にだが都築響一の仕事なども。自分が高尾に越した2008年にも、周囲にはそういう生活の気配があった。デヴェンドラ・バンハートの音楽で回想される、ある幅を持った時期の感じ。自然、精神的なもの、文化の断片が混在する生活への畏れと憧れのような気持ち。それを1970年代以降のコミューン運動の継続として、あるいはリバイバルとして、理解することもできるかもしれないが、どうなのだろうか。思いつくままに書いてみて。

 

・第一期と言える〈Sleeping by the Mississippi〉〈NIAGARA〉と、その後の〈Broken Manual〉、〈Songbook〉を経て、近作と言える〈A Pound of Pictures〉がこれほどまでに異なっていると知り、そのことについて友人たちと確認し合い、いまそのことを思い出している。それはプリントの方式や展示の形式のみならず(それも関係しながら)、しかし最も重要なことは作者自身が語るところの「啓示」に関わる。それは世界観の展開と言うべきもので、同時に、写真を含むメディア/テクノロジー/経済と切り離すことができない転換でもあるのだろう。そしてその啓示は「現在の状況で写真は(写真で)何をすべきか」という問いに接続される。

 

・そうしたことをある程度まで感覚的に理解しつつ、一旦アレック・ソスの仕事から離れて、同時に自分は、「現在の状況で写真は(写真で)何をすべきか」という問いに、あるいは問い方に、以前よりも「厚み」、「膨らみ」、「多様性」のようなことを感じて、考えている。制作する人間それぞれの身体や知覚に基づいた問い方がある、という、当たり前と言えばあまりにも当たり前のことを、最近よく(強く)考える。展示や作品集を見るときにも、そう考えることが多い。素朴に言って「歴史」や「社会」との接続も、ひとつの基準ではかることはできないということ。メモとして。

 

・なぜ、にもかかわらず、写真なのか、と考えたりもする。

 

・話しながらゆっくりランチを終えたあとは、友人が教えてくれた園芸屋「豪花舎annex」へ行き、その後以前に一度行ってぜひとも再訪したかった古道具屋「桜花園」へ。遊んだ。降り出しそうな日暮れを再び海外沿いで過ごして帰路へ。途中見つけたワインショップ「ami Hayama」で自分のためのお土産にワインを。土砂降りの中ゆっくり走って20:00前に帰宅する。

 

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