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  映像研究

現実への

・202107300859。昨日のことを記録することから。職場で学生に「質問いいですか」と言われて「あなたにとって映像とはなんですか」と問われて、それは質問なのですか、それはインタビューなのでは、と応答しつつ、同僚とともに、うーん、と考えて浮かび上がる言葉を発してみる。私にとって映像とは。時々完璧にまっすぐな問いを投げられて、驚き、そこで初めて引き出される自分の言葉がある。

 

・どう言うのがよいか、映像に惹かれるのは、映像を現実へのフェティッシュと考えているからです、私は現実につねに惹きつけられています、と答えてみて、言葉の意味としても、仮にも教育の場で発する応答としても、適ってなかったのではないかと思い返している。もう少し別の、たとえば友人との会話であれば、もっと直裁に「私にとって映像とは、現実への信仰です」と答えたかも知れない。現実への信仰。あるいは、存在への信仰。「信仰」という言葉を突然投げて驚かせるのではないかと思って、別の表現を探したが、難しい。その言葉と、その言葉が湧き上がった自分を、引き続き点検してゆく必要がある。いずれにせよ湧き出てしまった言葉を点検することから、自分の思考が少しずつ動き始めることもある、というのは最近行き帰りの電車で読んでいる『ライティングの哲学』とも通じる。

 

・現実への信仰、とはどのようなことか。何か特別な記録ではなく、この世界がこのようである/このように在る、ということに、感じ入ることがある。毎日毎秒ではないにしろ、結構頻繁にそれを感じるしそれを求めてもいる。動き続けるもの。その動きを追いかけたい。私もその動きとひとつになれたならば。そう思っているのだろうか。映像や写真は、その願いなのか欲望なのか意志なのか、そういうことと関係している。ビデオアートと認知労働について書いてみた修士論文の最後に、自分でも書いていて唐突だと思いながらしかし、湧き出てしまった一文があり、時々思い出す。

 

見つめることそれ自体のなかに、名前をつけることとも、所有することとも、数を数えることとも違った、その対象に〈なろう〉とするようなはたらきがある。

 

・文章を書くためには「湧き上がる」必要があり、その湧き上がったものが論文の体裁からこぼれてしまった。結論の前の最後の箇所だし、まいいか、と思って書いた一文は、その後数年の自分の新しい課題になった。体裁はさておき自分のためにだけで言えば、湧き上がって、こぼれてしまって、良かったと思う。

 

・高橋恭司という写真家がYoutubeに上げている《イメージについての絶望》という映像を時々見る。映像というか、写真家が、イメージ=写真について語る声が、途切れ途切れに聴こえてくる、辛うじて意味するところが引き出せる、というもので、その声の中に「コミュニケーションでもなくファンタジーでもなく」「手段でもなく目的でもなく」「芸術でもなく技術でもない」という言葉を拾い、はっきりと肯定で語るのではない、否定で語るべきことなのだろうかと考えることもある。

 

・あるいは適切な否定を重ねていくと、肯定できるものの輪郭が浮かび上がるのか。しかし肯定(という語が相応しいのか)、こうである、と言う時には、いずれにせよ飛躍があるようにも思う。否定は共有できるが、肯定はひとりひとり異なる向きがあり得る、とそのように考える。再び自分の考えに戻ってみて、今年の前半、1920年代の日本の写真論について書いた論文でも、殆ど同じことを、やはり後半に、つまり結論のようなこととして書いていた。

 

つまり、写真芸術とは、芸術家の「手」によって内なる主観を外=世界に押し出す術ではなく、ただ芸術家の「眼」によって世界=光を自らの内に引き入れる術に違いないとの信念が、この「直観」の語に託されたのだ。

 

・写真家が書いた写真論を読み、まとめ直しながら、しかし、なぜそれを読み、まとめ直すかといえば、自分もそのように考えているからであることは、確認しておいて良いと思った。その自分の考えは、取り替えがきかない、とも思う。「色んな考え方があるよね」というようなことではなくなってしまった。その「取り替えのきかなさ」「選べることでは無いということ」あるいは「もう既に選んでしまっているということ」を、仮に「信仰」としてみたのかもしれない。緩やかに変化することはあるだろうが、そのような考えとともに生きている、としか言えない。

 

・このことを時々考える。考えを誰かに伝える必要はあるだろうか。あるとして、いつ、どのように?