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  映像研究

夏合宿(月曜日)

・202108021622。集中が切れてしまって作業が止まったタイミングで書いてみる。昨日から夏休みになった。

カレンダーを8月に変えて気持ちも新たに自分の作業を進めたい。いくつか行きたいところがあったが状況を鑑みて自宅で黙々と作業すべきか。夏休み、あらため、夏合宿、ということにした。今日から。

 

・昨日は家電量販店に扇風機を買いに行った。家で二人が同時に作業できるように。いくつか見た中でアイリスオーヤマの(球形の)物が一番しっくりきて購入する。最近ちょっとした買い物は調布ではなく聖蹟桜ヶ丘に行くようになった。車で15分程度。川の近くの街、という感じで何となく気分が良い。前に行った時に気になった「せいせきA館」のサンコーヒーで休憩。ホットドッグとコーヒー。夕方さっと行ったから早めに帰宅。野村訓市のラジオなど聴きながら夕食。

 

・午前は資料を読み、文章を書き、午後は明日の勉強会の下読みなど。全然確証の持てないまま作業を進めることが難しい。やはりアウトライナー的な何かを導入すべきなのだろうかと土曜日のオンラインミーティングの会話を思い出すなど。それで中断。Youtubeに上がっていたジュディス・バトラーのイベントの動画など見ていた。一時間くらい前からアメッシュの画面を開き、南から雨雲が北上するのを待っている。雨が降れば少し涼しくなるだろうか。通り過ぎたら夕飯の買い物に出かけようかと思いながら。

 

・3月の日記を読み返したならば、相当に際どいスケジュールで論文を書いていたようだった。比べても仕方がないが、今のこの状況はまだ「まし」なのかもしれない。そう考えて作業に戻る。

 

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昨日のこと、昨晩のこと、今日のこと

・昨日のこと。業務のタームの最終日。この5年くらい最終日に作品発表をする集中講座を設けていてその最終日=講評日だった。この世界にはいつも新しい映像が生まれる。というか、新しい人が生まれるように、新しい映像が生まれる。その中のあるひとつのショットにはっとさせられた。そのショットの中には自分が映像惹かれることが全部、全部が言い過ぎならば、殆ど全部があると感じた。初めて見る映像に静かに興奮することを思い出した。

 

・業務が終わり文化祭の片付けのような時間も過ぎ、同僚チームで何らかの打ち上げの可能性を探る、が私たちの目に映る東京の街は静かに暗黙の規則を守っていた。落胆しつつ、駅で、これ今言っておかないと過ぎ去ってしまうから言うと、本当にいろいろありがとう、お疲れさまでした、などと言いつつ、帰る方向が違うからと分かれつつ、帰る方向が同じ人たちとは、電車のシートに座り、少し話しをする。業務の空間から離れた場所で、今日の出来事をどう見たか、にはじまり、近況、未来の予定などの話しをする時間は貴重。

 

・昨晩のこと。三週間ぶりくらいに山部の人たちとオンラインミーティング。缶ビールを飲みながらぽつぽつと話しをする。友人が『ブルータスカーサ』のまったく同じ箇所に目を留めたことなど。他にも友人が言ったいくつかの言葉の感じが残っている。そしてその感じはおそらく実際に会った時の感じとは違う。そんなことも話した。

 

・202108011129。今日のこと。今日から新しい月。カレンダーには「(ぐったり)」と書いてあり、大きく三角の印。これは作業の計画なのだが、そういうことなのだと思う。予言されていた。今のところ、業務連絡を少しして、メールを返し、しかし午後は少し作業を進めなくては、と考えている。部屋は暑い。微妙に二日酔い。読む一日、というふうに決めたら少し捗るだろうか。早めの昼食のために中断。

7月31日の朝

・202107310806。業務前に職場の最寄りのエクセルシオールにinして書いても良い。月末で土曜日。業務のタームの最終日。夏の業務全体の折り返し。チームも全員集合。本来ならば業務半分:打ち上げ半分(そこでの意見交換が有益だというエクスキューズ)くらいの気持ちで臨むべきところだが、情勢がそれを阻む。打ち上げられない世界。打ち上がらない世界。打ちもせず上りもしないのは何か。それがありうべき反省や互いの健闘を讃えあうことならば、その失われた「打ち」や「上げ」は別の何で、いつどのように代替すべきか。考える。

 

・ひとりで今振り返ってみれば、小さいけれども確実にうまくいっていないことが積み重なった一週間だった。反省、という言葉を書いてみて、しかし敢えて別の言葉で理解したくもある。学ぶことはある。修行が足りない。心と体が健康であれば余裕が生まれる。これは自分のこと。同時にチームのあり方はまた別に考えられる。あらゆる組織やチームは過渡的なものであるとして、しかし意識的にアップデートしていること、その計画的な変化自体をどのように共有できるのか。こういう問いはもっと掘り下げてみることができるのかもしれない。

 

・しかし明日からは別のことを考える。自分の研究のための時間がある。

 

・7月31日は小学校からの友人の誕生日で、毎年メールを送っている。面倒な、くだけた、二人でしか通じない、愛想のない、笑って貰いたい、時事的な、唐突な、異様に長い、色々なメールを送り、返事があったり無かったりする。そもそも互いに忙しく数年会えていなくて、でもその気になればいつでも会えるから、また近々、と思っていたけれども、そう思っていたらこのコロナで、一体次はいつ会えるのだろう、という、きっとこの2021年の世界に無限に近くある関係性のうちのひとつなのだと思う。「体に気をつけて」とか年々普通のことを書くようになってしまった。でも普通のことも大切ではある。と書いていて、結構会いたいということに気がついた。

 

・この夏の日差しが、不要な罪悪感を忘れる力になることを願い、この夏の熱と熱から逃れる冷房の空間が、ひとりで何かを決意する瞬間を生むことを願う。業務のために中断。

現実への

・202107300859。昨日のことを記録することから。職場で学生に「質問いいですか」と言われて「あなたにとって映像とはなんですか」と問われて、それは質問なのですか、それはインタビューなのでは、と応答しつつ、同僚とともに、うーん、と考えて浮かび上がる言葉を発してみる。私にとって映像とは。時々完璧にまっすぐな問いを投げられて、驚き、そこで初めて引き出される自分の言葉がある。

 

・どう言うのがよいか、映像に惹かれるのは、映像を現実へのフェティッシュと考えているからです、私は現実につねに惹きつけられています、と答えてみて、言葉の意味としても、仮にも教育の場で発する応答としても、適ってなかったのではないかと思い返している。もう少し別の、たとえば友人との会話であれば、もっと直裁に「私にとって映像とは、現実への信仰です」と答えたかも知れない。現実への信仰。あるいは、存在への信仰。「信仰」という言葉を突然投げて驚かせるのではないかと思って、別の表現を探したが、難しい。その言葉と、その言葉が湧き上がった自分を、引き続き点検してゆく必要がある。いずれにせよ湧き出てしまった言葉を点検することから、自分の思考が少しずつ動き始めることもある、というのは最近行き帰りの電車で読んでいる『ライティングの哲学』とも通じる。

 

・現実への信仰、とはどのようなことか。何か特別な記録ではなく、この世界がこのようである/このように在る、ということに、感じ入ることがある。毎日毎秒ではないにしろ、結構頻繁にそれを感じるしそれを求めてもいる。動き続けるもの。その動きを追いかけたい。私もその動きとひとつになれたならば。そう思っているのだろうか。映像や写真は、その願いなのか欲望なのか意志なのか、そういうことと関係している。ビデオアートと認知労働について書いてみた修士論文の最後に、自分でも書いていて唐突だと思いながらしかし、湧き出てしまった一文があり、時々思い出す。

 

見つめることそれ自体のなかに、名前をつけることとも、所有することとも、数を数えることとも違った、その対象に〈なろう〉とするようなはたらきがある。

 

・文章を書くためには「湧き上がる」必要があり、その湧き上がったものが論文の体裁からこぼれてしまった。結論の前の最後の箇所だし、まいいか、と思って書いた一文は、その後数年の自分の新しい課題になった。体裁はさておき自分のためにだけで言えば、湧き上がって、こぼれてしまって、良かったと思う。

 

・高橋恭司という写真家がYoutubeに上げている《イメージについての絶望》という映像を時々見る。映像というか、写真家が、イメージ=写真について語る声が、途切れ途切れに聴こえてくる、辛うじて意味するところが引き出せる、というもので、その声の中に「コミュニケーションでもなくファンタジーでもなく」「手段でもなく目的でもなく」「芸術でもなく技術でもない」という言葉を拾い、はっきりと肯定で語るのではない、否定で語るべきことなのだろうかと考えることもある。

 

・あるいは適切な否定を重ねていくと、肯定できるものの輪郭が浮かび上がるのか。しかし肯定(という語が相応しいのか)、こうである、と言う時には、いずれにせよ飛躍があるようにも思う。否定は共有できるが、肯定はひとりひとり異なる向きがあり得る、とそのように考える。再び自分の考えに戻ってみて、今年の前半、1920年代の日本の写真論について書いた論文でも、殆ど同じことを、やはり後半に、つまり結論のようなこととして書いていた。

 

つまり、写真芸術とは、芸術家の「手」によって内なる主観を外=世界に押し出す術ではなく、ただ芸術家の「眼」によって世界=光を自らの内に引き入れる術に違いないとの信念が、この「直観」の語に託されたのだ。

 

・写真家が書いた写真論を読み、まとめ直しながら、しかし、なぜそれを読み、まとめ直すかといえば、自分もそのように考えているからであることは、確認しておいて良いと思った。その自分の考えは、取り替えがきかない、とも思う。「色んな考え方があるよね」というようなことではなくなってしまった。その「取り替えのきかなさ」「選べることでは無いということ」あるいは「もう既に選んでしまっているということ」を、仮に「信仰」としてみたのかもしれない。緩やかに変化することはあるだろうが、そのような考えとともに生きている、としか言えない。

 

・このことを時々考える。考えを誰かに伝える必要はあるだろうか。あるとして、いつ、どのように?

朝書く

・202107290750。職場の最寄りのエクセルシオールで。少し早く家を出ると暑さも少しましで電車も気持ち空いている。そうして職場に着くまでの時間に猶予がある。電車の中で引き続き『ライティングの哲学』を読んでいる。長い文章を書くことの体勢(体制)をこの夏に構築したいと思いつつ、構築的でない「書き方」に対する憧れのような気持ちも持ち続けている。ともあれ自分の「書くこと」は気づけば「憧れ」のようなことからはかなり遠くに来た、来ることができた、とも思う。事務的なメールの文章も、業務で必要な広告の文章も、ある程度の型と、ある程度の流行(小津安二郎的な意味で)とで、何とか投げることができるようになった。たとえば学部生だった頃は、自分から発せられる言葉は、なんであれ全てが作品のようなものでなくてはならない、と思っていたようなところがあったけれども、あれは年齢による特殊な心理だったのか。あの「作品のような顔をしたメール」はどこへ消えたのか。など考えている。30分だけ自分の作業をするために中断。