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  映像研究

20230930

・20230930と打てば、2023年のこの9月の終わることを思い、そして4月からはじまった2023年度がちょうど半分過ぎることを思い出す。長距離走の折り返し地点のようなイメージも浮かぶが、実際には折り返すこともなく、先へ向かう。あるいは季節を円環としてイメージするならば、つねに回り続けている。それでもやはり半分。反省がとめどなく溢れそうな6ヶ月。余裕があれば日記を読み返しても良い。

 

・労働をして賃金を受け取り、まずは生命を維持するための諸々にお金を払い、自分や家族が日々をより気持ちよく過ごすための品を購入して、さらに自分の学びのための何事かにお金を使う。それを生活と呼ぶのだったか。大学を卒業した翌年にはじめて一人で生活をはじめたのは確か10月だった。この季節の空気の中で生活ということを思い出した。

 

・長く使っている物が、壊れたり劣化したりすれば、直すことができる限りで直す。新しい物を購入することも楽しいけれども、直して使い続けることには、特別な良さがある。出来るならば自分の手で直したいけれども、必要に応じて、それを仕事としている人にお願いすることもある。注文して、手元にかえってきた時は嬉しい。そして直すことが重なる時期がある。忙しさがひと段落して周囲を見回したならば、あれも、これも、直したいと思う。

 

・夏に不安を感じた車のブレーキは部品の交換。もう少ししたら着るであろうニットの穴は縫い直して貰う。そして20年前に購入したダウンジャケットは数年放置していたけれども、まずはファスナーを交換して、あせてしまったナイロンを染め直すことにして注文してみた。まだまだ使える。物を直して使うことを意識すると、生活という言葉の意味が動きはじめる感じがする。

 

・人の生は有限で、時々それをはじまりと終わりがある帯のような、映像編集のタイムラインに投げ込まれた動画素材のようなものとしてイメージする。その上で、普段「物を使う」と言えば、自分の生よりも物の存在の方が短い時間のように思えて、実際に「使い捨てる」と言うときに、その「物」は、完全にその存在のはじまりも終わりもコントロールされている。けれども本来は、物の存在は(物の生は)、多くの場合は人の生よりも長くあり得るし、あるべきとさえ思う。それは10年くらい前に山本理顕『権力の空間/空間の権力』のもとになった『思想』の連載を読んでいて、はじめて意識した考えで、時々その考えと、タイムラインのイメージを思い出すことがある。

 

・自分よりも長く存在する物に迎えられるようしてこの世界に生まれて、その物たちと一緒に生き、そして見守られながら亡くなる。そういうイメージがある。中断。

見ていない

・夏のあいだに撮影した3本のブローニーフィルムのベタ焼きと、2020年に撮影した写真のキャビネサイズのプリントが仕上がったのは昨日。写真の像を見ながら多くの反省がある。自分は、自分が思っているよりも、見ていない。見ることをしていない。見ることができていない。それは撮影の際に、写すものを見ていないということでもあるし、状況を判断できていないということでもある。ベタ焼きに現れた一枚につき8つの像は、その事実を映し出しているように思われた。しかし何よりも驚いたのは、ベタ焼きで既に見ていると思っていた写真に、全く意識してしなかったものが映り込んでいることに、引き伸ばしてみてはじめて気づいたことの方であった。自分にとっては、静けさを感じつつ、写し取ったと思った写真は、実際には多くの雑多な事物が映り込んでいる。それ自体は、良いも悪いもなく、しかし自分の抱いていた印象との違いに驚く。そして、自分はおそらく自分が考えているよりも、見たいものを、見たいように、見ている、ということを考えた。映像を意識的に撮影しようとした際の、ごく初歩的な問題にまったく予期せずつまずき、驚きつつ、自分の「見ること」が変わるかもしれない。

 

・この数日考えていたことは、「事物を見る」と同じような意味で、「事物」に代入するようにして、「風景を見る」とは、言えないのではないかということだった。「風景画」も「風景写真」も確かに存在するが、「風景を見る」という行為はあり得るのかと考えている。ある場所に立ち真っ直ぐ前を見渡せば、何か見える。山頂に立てば空と地が、海岸に立てば空と海が見えるかもしれない。塔に立てば町のありようも見えるだろうか。しかしその経験を「風景を見る」と言う必要はない。仮にその状態に置かれた身体に関して、「外界を拡がりとして受け取っている」と言ってみるならば、それは「見ること」なのだろうか。おそらく目は自然に何かに焦点を合わせるだろうが、必ずしも注視を伴わない。そう考えたときに、「風景」とは自明のものではなく、そして「風景画」も「風景写真」も、人間の経験に対して、特異なイメージであるように思えた。

 

・「外界を拡がりとして受け取っている」と言ってみて、自分にとってその状態=経験は重要かつ不可欠であることに気がついた。それを、人間にとって、と言ってしまうことには躊躇いがあるが、しかし素朴に言えば「遠くを眺める」ような経験によって、人は自分がこの世界に存在していることを実感するのではないか。その実感があるのだとして、そしてその実感こそを定着することはできないだろうかと、ある場所に立った写真家が、もしもそのように考えたならば、その人は自身の手にしたカメラをどのような場所にどのように構えるのか。何かを訴えることや、何かを物語るためでなく、また分類という方法に手を貸すこともなく、単なる像として定着させること。人間が感じる「拡がり」を像として定着させることは、その像を見る者に、存在の問いを手渡すことになるだろうか。

短いフェーズ

・変化している。変化を感じながら生きている。日頃は忘れている。無意識にでも焦点を合わせないようにしている。時々追いつかれて肩を叩かれるように、もしくは偶然に出くわすように、他者の心身の不調の波にぶちあたる。波がぶつかりあって衝撃を生むような木曜日。帰宅して家族に「今日は悲しいことしかなかった」と声に出す23:00。ひとつひとつの出来事を記述することはできない。

 

・少し前にこのような感触を持ったのはと思い返してそれは夏のはじまりの火曜日だった。それは主に2020年/2023年以降のあたらしい社会のありようについて、軋みつつ変化していくイメージとして考えられたけれども、現在の感じはまたそれとも異なる。暑さでやられてしまったのではないか。耐え難い暑さと、官民を超えた管理による窮屈さとで、さらにはいたるところで漏れ広がる「感情を想起させる情報」を見聞きすることによって、激しく、等しく、疲弊しているのではないか。

 

 

mrtr.hatenablog.com

 

 

・疲弊は連鎖するようにも思われる。連鎖して、そして、ある日突然給食が届かなくなるのか。

 

・同時に、思考の底にうっすらと沈澱する「悪を言い当てんとする欲望」に敏感であれ。自戒。

 

・この時代にこの場所でジェーン・スーという人が求められる理由はさまざまに考えられるが、ひとつには「お疲れさま」というただその言葉を、適切な実感を込めて表現することができたからではないか。自分にとって学ぶことが多い事例だが、しかし振り付けられた「お疲れさま」では誰にも届く言葉にはならない。想像力をはたらかせつつ発する言葉には何かが宿る。嘆きを踏み越えて発せられる「お疲れさま」を必要とする社会あるいは世界について考える。

勉強

・今までで一番勉強をしたい、と思い友人と予定を合わせて勉強会をする水曜日。

 

・ひとりで勉強するならば自宅や図書館で良いけれども、ふたり以上で勉強するとなれば場所を探すことが難しい。自分が住む市の中央図書館の学習室は環境が素晴らしいが2時間の制限があり断念。周辺の自治体の施設は大抵在住か在勤あるいは在学している者でなければ使用できない。それならばと、大きめの駅の名前と会議室で検索してみれば、マンションの一室のような施設が表示されるが数時間使用すればかなりの金額になるので積極的になれない。とはいえ普通の喫茶店では文章を声に出して読みながら意見を話し合うような形式ははばかられる。数日探して適当な場所を見つけた。

 

・そのような意味で立川市のRISURUホールは素晴らしかった。会議室の使用は事前登録が必要とのことで、ギャラリー、という名称のスペースを前日の連絡で予約する。ギャラリーは謎の広さがあり面白かったけれども、何より広い場所で存分に勉強会ができ、しかも安価でとてもありがたい。13:00から17:00まで。1999年に出版された写真論を読み、意見を交わし合う。このような機会も久しぶりだった。

 

・勉強を終えたならば飲食しながら近況を話し聞き合う。偶然見つけて入った飲食店で働いていた人がかつて学生と呼んでいた人であったアクシデントを含みつつ、平日の夜は長くて自由。まだまだ暑い日だったから夏の夜のよう。このようにいつまでも勉強を続けられれば何よりの幸福と思う。

(よく)見ること

・休日。主に自宅。「見ること」について考えている。「見ている対象」や「見えている事実」について考えることとは異なる。積極的に、意志的に、見つめる行為を問うている。生活の必要のために見ることではなく、見つめる行為自体の度合いを想定している。それを「よく見ること」と言える。「より良く見ること」でもあり「よくよく見ること」でもある。

 

・作品が展示されている空間に行けば、「よく見ること」をする。見つめられることを想定した作品が置かれているから、おのずと見つめる態勢になる。いま「見つめる態勢」と言ってみて、それはどのような「態勢」だろうかと考えてみる。その作品が「どのようなものか」と知ろうとする。見ることは知ることでもある。知識ではないから到達する地点はなく、自分が納得できるところまで知れば、見ることをやめるかもしれない。

 

・一方で、「作品」ではない、何かの事物を「よく見ること」とは、どういうことか。目の前の石や柱や葉を見つめることがある。それは見つめる行為の度合い自体を、そのはたらきを、確かめているのか。人工物ならばその事物がその場所にそのように置かれている来歴は、ある意味での知識と言えるかもしれないけれども、それを確認することを求めていない。目の前の事物の質を感じている。存在として感じているとも言いたくなる。「存在」と「度合い」とは近しい。見つめる行為自体に快がある。この「快」について考えているのか。事物はどのようなものでもあり得る。どのような事物であれ、見つめる行為の先には快がある。仮に「快」と言ってみて。

 

・この意味でシュルレアリスムのオブジェという考え方とは異なるように思える。オブジェは度合いを問題としていないのではないか。たとえば「ありふれた事物を展示または映像化することでまじまじと見させる」とは言っても、実際には「まじまじと見る」ことよりも一度きりの驚きの方が優先されているように思える。100年前の潮流だけれども、この方法は現代でも用いられることがある。とはいえ、このような美術の問題としてではなく、見ることを問う方法を探している。問いの糸口を探している。

 

・こうした問題圏の「見ること」は、「祈ること」つまり信仰の問題と関わる。自分は信仰の実感がないから、色々な個別のケース(運動や思想)に学ぶ必要がある。民藝の基礎にある考えとはどのようなものか、山岳信仰に基づいた山岳写真とはどのようなものか、ラスキンの哲学とはどのようなものか、と考えていると概ね19世紀真ん中くらいから20世紀前半くらいまでが関心の場になってきた。むしろ20世紀中盤以降の機械映像が送り届けられるようになった世界に生まれた人は、本当に「見ること」をしているのだろうか、と大袈裟であることを承知の上で問うてもよい。「見ること」をする間も無く「伝達すること」に忙しい。もしもベンヤミンの映像論を読む意味があるならば、こうした問題を仮設した上で読むべきだろうとも思う。

 

・写真を含む機械映像による表現行為を、以上の関心領域としての「見ること」との関わりにおいて考えること。部屋に積まれた諸々の本を束ねるために差し当たりこのように素描してみる。今までで一番勉強をしたい。