&

  映像研究

Happy Living、について

 
・土曜日だけれども今日は休日だった。休日だったので昼から出かけて東京都現代美術館へ。『Future Beauty 日本ファッションの未来性』を鑑賞。1970年代初めのイッセイミヤケが面白かった。80年代のコム・デ・ギャルソンは堂々としていた。90年代のファッション通信の映像は懐かしかった。ミナペルホネンのテキスタイルは可愛かった。sacaiがあるならばkolorも置いて欲しかったなぁ。それにしても隣(下?)の会場の『特撮展』は凄かった。ついでだし見ちゃおうか的な気持ちを挫かれる行列。チケットを買うにも会場に入るにも数十分待ち。あっさりと諦めた。「ファッション」と「特撮」の2本立てというのもなかなか味な組み合わせだと思う。そして最終的にはその二つはそれほどには違っていない。


・それで夕方からは恵比寿へ移動。リキッドルームへ。「LIQUIDROOM 8TH ANNIVERSARY WITH AUDIO SCIENCE LABORATORY PRESENTS YANN TOMITA CONCERT」だった。楽しみすぎて震えながら待つ。お客さんの年齢層高めなのも良かった。高校生の頃に仰ぎ見ていた90年代のカルチャーのど真ん中の世代の人たちがそのまま40代になってふらっと来ている感じが良かった。カルチャー的な場に最年少で「入れてもらっている」頃の感じを思い出して完全に個人的にちょっと良かった。ボーダー・シャツの大人が沢山いた。


・それで18時ちょうどに開演して、途中に休憩を挟みながらも23時の終了まで、おおよそ5時間のライブ、あるいはコンサート。何が出てきても、どんなステージになっても、それはそれで最高、と思うだろうなぁという心持ちで行ったのだけれども、そういう(パーティー的なこと)とも全然違った感じで、凄く良かった。


・2012年の9月という時に、このステージを観ることが出来て本当に良かったと思う。ステージは、ステージだから、その細かいこと、演出、曲のタイトル、あるいはその音や言葉さえも忘れてしまうだろうけれども、そのステージで見せていたものを多分この先自分は忘れないだろうなぁと思って、少ししんみりとした気持ちになった。鳴っているのは電子音楽、ほとんど、というか完全にノイズ・ミュージックなのだけれども、その音が鳴らされるべき理由と、その理由を、時に恥ずかしそうに、時に面倒くさそうに、時に真面目な感じで、ぽつぽつと話すヤン富田という人の言葉に耳を傾けていたら、何とも言えないしんみりとした気持ちになった。


・「あなたにとっての『Happy Living』は何ですか?」と訊ねられていたのだ。ステージの上からヤン富田という人はすべての人に訊ねていた。そして「Happy Living」について、そのイメージ、そこへ進むための方法、全然押し付けがましい感じではない或るモデル、そしてその輪郭。そういうものを示していた。示そうとしていた。「完全なもの」がないようなテーマについて「偶然」を頼りにして描こうとしていた。何度も何度も同じイメージを、輪郭を描こうとしていたように思う。ユーモアと、リラックスと、でも凄く真面目な感じが伝わってきて、こうして思い出していても少し、凄く、切ない気持ちになってしまう。そして「さて、明日からどうやって生きていこうか」と思ったりする。


・「アートは自由である」という言葉を、説得力を持って聞くことはあまりない。それは多くの場合「自由でないアート」に対する、それ自体コンセプチュアルな反抗の姿勢であったり、あるいは最悪のシチュエーションとして、その言葉自体が単なる広告のキャッチコピーであったりする。そういうことではない意味での「アートは自由である」という言葉は、きっと時間とともにあるのかもしれない。でもそれは単純に「長い時間」ということとも少し違うのかもしれない。それは歴史ということとは違うのだろう。そうではなくて「自由である」ことに進むための方法のようなものがある。方法の積み重ね、とか、ヴァージョン・アップ、のようなことがあるのかもしれない。「実験」ということかもしれない。


・そんなことを考えたり考えなかったりしながら音楽を聴いて、小雨降る恵比寿から渋谷へ移動して少しだけお酒を飲んで家へ帰る。「Happy Living…」と考えながら家へ帰る。具体的な課題は色々なレベルで幾つかあって、抽象的な課題(?)もいくらでもある。寝ても覚めても(休み休み)考えている。