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  映像研究

『アウフォト』という雑誌を見ることからはじめてみる

 
・あっという間に11月が終わっていた。日々を慌ただしく過ごす。継続して考える。そういえば少し前から機会があれば見返したいなと思っていたのは『アウフォト』という雑誌で正式な(?)名称は『out of photographers』ということだけれども、その雑誌の1号から3号がよく行く古本屋の均一の棚にあったのだからそれを購入した。例えば「自撮り」という言葉は現在において普通に使われているらしいのだけれども、その「自分を撮る」という行為、その行為によって獲得されるイメージについて、少し立ち止まって考えてみることはできないか。「セルフ・ポートレート」と言ったときとは、あるいは端的に「自画像」と言ったときとは、何が同じで何が違うのか。そういうことを考えることができるかもしれない。


・そして「日常/生活」と言葉にしてみて、表現の対象としての、表現の題材としての、表現のモチベーションとしての「日常/生活」とは何かということについて考えることもできる。「何気ない日常/生活を記録する」と言葉にしてみたならば、それは「90年代の、ある感じ」と結びついているように感じられるけれども、その「(何気ない)日常/生活」とは何なのか(何だったのか)。そしてその「日常/生活」と呼ばれるものを「記録する」ということは、どのような行為なのか(だったのか)。ネットワーク以降の「記録すること」の現在を考える上でも、あるいは個人的な考えることと実験することの道筋を確認するためにも、あの頃の、あの感じ、を思い出してみることに意味があるかもしれない。


・その手にした雑誌の1号から3号に掲載された写真を眺めながら、その巻頭に書かれたテキスト、ステートメントを読んでみる。それはアートの(芸術の、という言い方よりも)スタイルの問題であると同時に、ライフスタイルについての問題提起であったのだと思うし、アートのスタイルについての問題提起はライフスタイルについての問題提起と通底する、ということを示そうとしていた。そしてその「問題提起のスタイル」というのは、シーンにも、そして時代にも規定されるのだろう。恥ずかしそうにステートメントを言葉にする。少しふざけながら言葉にしてみる。シリアスでプライベートは事柄は、いつも照れ笑いや、少しくだけた言葉遣いとともに伝えられた。それはテキストの構成もまたそのような展開になる。書き言葉と話し言葉が接続される。くだけた話し言葉のあとにシリアスな書き言葉が置かれることで背筋が伸びるように思う。


・そのステートメントの「いろんな人がいろんな時間にいろんなことをやってるってことを、実感したくてこの雑誌を始めた」というフレーズを読んで、ああ、確かにそうだったんだろうなと思う。90年代の後半には、ネットワークで写真を共有するという発想はない。まだギリギリなかった。日常/生活を記録することは自分にとっての、あるいは親しいコミュニティのための行為を意味していた。しかし現在はそうではない。日常/生活を記録することは、それがそのまま「いろんな人がいろんな時間にいろんなことをやってるってこと」に接続される。たとえその撮られた写真がネットワーク上にアップロードされなくとも、意識として「いろんな人がいろんな時間にいろんなことをやってる」フィールドに接続される。それが良い/悪いということは簡単には言えないのだとして。


・「サラリーマンって楽しいなあ」「不良って大変だよなあ」「いいじゃん、どんなことやってたって」というフレーズも、またこの時代の、あえて言うならば「時代精神」のようなこととして、現在からすれば感じられる。90年代(後半)に「サラリーマンって楽しいなあ」と言葉にすることは、おそらく80年代後半〜90年代初頭のバブルと呼ばれた時代に語られた(であろう)同じような意味の言葉とは違っていたのだろうと思うし、ましてやそれから30年ほど遡った時代の「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」というフレーズとも全く意味が違う。自分の身の回りの「何気ないもの」に積極的に幸福を「見出そうとする」ということの切実さがきっとその時代の精神と言葉の感覚を作っていた、のでないか。


・そして現在において「サラリーマンって楽しいなあ」という言葉は、どこをどう、逆さに振ってみても出てこないように思われる。もしも「楽しい」としても「楽しいなあ」という言葉はでてこない。語尾の「あ」が出てこない。それはさておきそもそも現在「サラリーマン」という言葉が何を指しているのか。雇用の流動化という言葉を持ち出すまでもなく、その実態がよくわからなくなっている。土曜日と日曜日の少なくともどちらかは休みで、やることもないから近所のコインランドリーに行ってみるような場面を90年代の映画やドラマで見たような記憶があるが、あれは何だったのか。携帯電話はむしろ自由の象徴で、ポケットベル、留守番電話、ファクシミリ、伝言ダイヤル、あらゆるツールを駆使して、人と会おうとしていた。いくつかの映像を、あるいは体験を、そのような言葉に重ね合わせようとしてみる。

『OUT OF PHOTOGRAPHERS 001』
この雑誌はタイトルの示す通り、プロの写真家が仕事のために発表するような写真ではなく、あくまでも趣味的な(いうなれば素人の)写真を紹介していく。もっと分かりやすく内容を説明しよう。この雑誌の中にケンジという名の若い彫り師が登場する。1年半ほど前ケンジの彼女の紹介で知り合って以来、彼女とは会わなくなってもこいつとは今も付き合いが続いている。SEX,DRUG,ROCK’NROLL、撮ってくる写真がとびきりおもしろいことから、この雑誌の創刊決定以前から僕は彼に参加を求めていた。そんなケンジから一度こんなことを言われたことがある。「ごめんね、よねちゃん。なんか最近面白すぎちゃってさ、写真撮るの忘れてるよ」。僕がこの雑誌で表現したいことは、まさにこの感覚なのである。現実が面白いから、それに向かってシャッターを押す。写真はそのときの副産物に過ぎない。長島有里枝という写真家がいた。パルコで毎年行われているアーバナイトというアート展で、3年前家族と一緒のヌードを撮って賞をもらった女の子といえば分かる人もいるに違いない。あっという間に写真集が2冊発刊される。ナン・ゴールディンとの出会いで、ワールドワイドな成功も目前に迫っていた。ところが、そんな時期にも関わらず、彼女は1年半前アメリカシアトルへスケートボード留学を遂げた。最初は驚いたけど、留学前の彼女との会話を思い出して納得した。「なんか最近写真を撮るってことが邪魔でしょうがないんだ。だって友だちと盛り上がってまさにこれからって時に、カメラ出してこっちはシャッター押してるわけでしょ。もしその人が本当に大切な人だとしたら、それっていらないことだって思うんだよね」。ただおもろい日常の記録として写真を撮り続けていた不良(ごめん)ケンジの意識と、自分の存在を薄めていくことで写真をひとつのアート的表現手段とした長島の意識がここで繋がった。そんな彼女は、今回スケーターとしてこの雑誌に参加している。「写真見ると、なんかその中に写ってるわたしたちって、友だちってカンジがすんだよね」。写真ブームの渦中にある女子高生たちの多くに、写真を撮る理由を尋ねるとこんな答えが返ってくる。それは現実を切り取るのではなく、現実を確認するためだけに彼女たちの行為があることを意味する。ここ日本では、これはなにも写真を撮る、という行為に限ったことではない。どうして君は写真を撮るのか?一度考えて見ても悪くない。で、できればこの雑誌の読者なら、ケンジや有里枝ちゃんの意識を持ってもらいたいなあ、なんて思ったりして。面白かったらカメラを捨てろ。そんな気分の雑誌なのである。

『OUT OF PHOTOGRAPHERS 002』
創刊号で応募した読者からの写真が届いた。いやあ、封を切ることがこんなにも楽しかったのは、中学のラブレターもらったとき以来っす。中には勘違いな作品もいくつか入っていたけど、それを含めた上で(これはけっして嫌みじゃなく、ほんとにだめな作品はだめな作品なりに存在感があったということ)、たくさんのプライベート写真は僕たち編集部の人間を大いに喜ばせてくれた。プライベート写真とはすなわち、そのひとまんまの写真ということである。写真を撮るために生活があるのではなく、生活の中に写真が含まれるというカンジだ。だからこそ、作品の性質とは関係なしに、そこには本物のリアリティがあり、本気な意識が流れている。簡単に説明すれば、SMを撮ることがかっこいいのではなく、SMが楽しくてその記録として写真を撮ってしまったということだし、クラブで遊んでるやつがかっこいいから写真を撮るのではなく、おもろいからクラブに行って気づいたらみんなの写真を撮っちゃったのである。すなわち、僕たちがこの雑誌で言いたいことは、やってるやつこそ面白い、という現場主義的な気持ちなのだ。だからといって、派手なことをやっているからかっこいいと言いたいのではない。サラリーマンって楽しいなあ、って思っている人の写真は、不良って大変だよなあ、って思っている人間の写真と同じだけ面白い。自分のおかれた立場にリアリティを感じてる人はみんながかっこいい、というのがこの雑誌の基本なのである。同じカッコをしていなくても、僕たちは同じ意識を持つことができる。同じ音楽を聴かなくたって、僕たちは同じように感動することができる。そして、同じ生き方をしていなくたって、嘘さえつかなければ、互いのことなんて簡単に理解できる。まあ、そんなことページをめくれば、無条件に感じてもらえるとは思うんだけど。

『OUT OF PHOTOGRAPHERS 003』
いろんな人がいろんな時間にいろんなことをやってるってことを、実感したくてこの雑誌を始めた。みんなの写真が集まれば集まるほど、そのやりたかったことの形がはっきりしてくる。最初に書いておきますが、この雑誌はみなさんから送られてきた写真で成り立ちます。いろんな有名な人たちに写真を撮ってもらっていますが、それが目的なのでなく(ってこれは写真を出してもらう際に、最初に納得してもらうこと)、その写真とみなさんから送られてきた写真が同じ次元でページに並んでいる、というのがこの雑誌のまず最初の目的です。ステージ上で歌っている人がいれば、会場でそれに合わせて手を上げている人がいる。置かれた立場が問題なんじゃない。東京に住んでるアーティストもいれば、東京からずっと離れた場所に住んでるファンもいる。今いる場所が問題なんじゃない。どっちが良い、悪い、というわけではなく、どっちもありじゃないの、というのがこの雑誌の主張です。だっていろんな人がいろんな時間にいろんなことやってるから世の中なりたつんだし。いいじゃん、どんなことやってたって。いいじゃん、どんなとこに住んでたって。そんなことをごちゃごちゃ問題にするのではなく、自分がほんとにそうしたくて、そうしているのか?極論すれば自分を好きか、どーか?という簡単なことを、問題とした雑誌が一冊ぐらいあったっていいんじゃないか?という気持ちがこの雑誌の持つ基本精神です。自分は自分のままでいるからかっこいいんだぞおっ。いや、まじな話。