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  映像研究

自由さの結晶のようなもの

 
・数日前のDOMMUNEの『ヤン富田・前夜祭』を見て盛り上がってしまって/盛り上がってしまった勢いで、土曜日のリキッドルームのチケットを取ってしまった。楽しみすぎて震えている今。


ヤン富田という人のことがずっと気になっていた。ヤン富田という人の「感じ」がずっと気になっていたかもしれない。高校生の時に「これは何だろう?」と思いながらDOOPEESを聴いたことや、大学生の頃には基礎教養と思って『MESS/AGE』を聴いたら全然そんな風な気持ちじゃなくなってしまったことや、部屋の本棚のフォーエバーなコーナーに置いてあるリラックスの「ビート禅」の特集とか、「だいじょーぶ」という曲や、『Variations』と『SUMMER WORKSHOP』に入っている音楽や映像、そのすべてにある「感じ」のようなことをずっと思っていたかもしれない。そしてその「感じ」が、例えば他の何と似ているとか、考えるかもしれない。他の何のことを思い出すとか、考えるかもしれない。


ある時は「A.K.I.PRODUCTIONSという人」のCDを聴いていて、ライナーノーツと言うにはあまりにも凄いテキストを読んでいて、ふと「ヤン富田」という名前を発見してなるほどと思ったりした。「感じ」が気になるということは「アイドル」ということかもしれない。アイドルとしての、自分にとっては例えば「小沢健二という人」や「高橋悠治という人」もいる。そういえばアイドルは偶然にも音楽をやっている人で、もちろんその音楽は聴くのだけれども、その音楽となだらかに繋がるようにして在る、その人の話したことを聴いたり、書いたものを読むことも面白い。そしてそのような音楽や言葉を届ける、その届ける方法についても、少し面白かったりするのが良い。大切なものが、手紙のように届くようなイメージ。


・そういう「感じ」や「イメージ」を頼りにしてまた、何かを見る。あるいは「見ること」について考える。「見ること」について考えさせるようなイメージの存在を考える。良い「感じ」を持っていて、その感じが、何かを考えさせる(考え直させる)ことへゆっくりと連れて行くようなイメージ。似ているのは例えば「高橋恭司という人」の写真や、あるいは「小林節正という人」が作るプロダクトにも少しそういう印象を持つかもしれない。「ああ、これを創造した人は、この物の前で考えて、もの凄く考えて、そして(もしかしたら)その考えてることを忘れたりしながら手を動かして、そして今目の前にこの物があるんだな」と思うような物を見たい。そういうイメージを見たいし、そういう音を聴きたいし、そういう言葉を読みたい。


・何よりも、きっとそれを作る人が、その物やその事が存在している、その状況を知りたいと思って、知覚できる状態にするということ。その行為。その行為の(とりあえずの)結果=現在としての何か。結晶のようなもの。そういう感じ。