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  映像研究

雨宿り

・春を待つ日記。贅沢な三連休の最終日には、今日こそは自分の作業を進めなければと思うが、全然Wordを開く気にならない。文章を読む気にもならない。眠くもない。家族を車で送り、業務連絡のメールなどして、ぼうっと過ごす。雪になるらしい雨から身を守るように部屋で過ごす。

 

・この数日「1990年代後半から2000年前後」のことを思い出すのは、少し前に「Y2K」という語を知ったからだろうか。リバイバルは20年周期と言うから、「90年代」のリバイバルに飽きた頃には「1990年代後半から2000年前後」の諸々に何かを感じるように仕掛けられているのか。

 

・新しい音楽を聴いて、自分がかつて聴いて知っている「あれのようだ」と発言することは慎むべきと思いながらも(発言する)、少し前にJ-WAVEから流れてきて気になったBialystocks(ビアリストックス)の音楽に、かつて90年代後半から2000年前後にはじめてキリンジを聴いた時に感じた不思議さと自由さを思い出した。『Over Now』『All Too Soon』など映像も興味深く見る。

 

 

 

・新しい映像を見て、自分がかつて見て知っている「あれのようだ」と思うことは許される気がする。いとうせいこうが出ている『ボタニカルを愛でたい』という番組をYoutubeで見て、ナレーションが小泉今日子であったことに、かつて90年代後半に夢見るように見ていた深夜番組『holy mountain』をも思い出す。雑誌relaxの世界も。調べると『ボタニカル・ライフ』も1999年だった。

 

 

・片仮名で「エコロジー」という言葉は20世紀からあっただろうけれども、略して「エコ」という語が増殖し始めたのは2000年前後だったのではないか。2000年代は「2.0」などと言われてコンピュータ・ネットワークが一般化(拡大)しつつある時期だったけれども、一方で「グリーン」「オーガニック」が特別な価値を持った言葉として流通した時期でもあった。もちろんそうした系譜も含めて大きな流れは今と繋がっているけれども、時にそれを切り離して考えることにも意味がある。

 

 

 

・自分の考えが停滞しないことを意識しながら。あるいは思考が深まっていくことと停滞することの境を見極めながら。そのためにも過去に学ぶことがある。自分の過去に学ぶことはもちろんだが、それ以上にかつての時間に今の自分に近い視野を持っていたであろう先人に学ぶべきだろうか。すべては一度きり、ということと、さまざまな周期で繰り返すものに取り巻かれている、ということの両方を感じながら。

 

・たとえば新しく着るものを選ぶことの中にも、文章を書いていて次にどの語を書くかの選択の中にも、風景をどのように見るのかにも、こうした思考のすべてがあるのだろうか。