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  映像研究

もうすぐ年末だけれども、それはさておき考え中。

 
・26日木曜日。何だか周囲が少しずつざわざわと忙しくなりつつある今日この頃、これはまさか年の瀬なのだろうかと考えると、一気に毎年のあの「年末感」に引きづり込まれそうになる。それにしても師走特有のあの繁華街のキラキラ&フワフラした感じは一体なんなのでしょう。誰の何によって醸し出されている雰囲気なのか。都市の不思議を思う。そしてそんな最中に、とうとう、あるいは何故かこのタイミングで、ふいに「twitter」でつぶやき始めてしまう。つぶやきだけにぼそぼそと、積極的に意味のないことをつぶやいてみようと思いながらも、まだまだ趣旨がわからないので蚊の鳴くようなつぶやきだ。とりあえず気持ちが悪いと思ったらすぐに止めれば良いじゃないか、と自分に言い聞かせながらつぶやいてみる。未だ5ツイート。



・そして本日は業務で使いたいと思った持っているはずの本を家だか職場だかで紛失した結果、西八王子駅で下車して中央図書館へ借りに行く。隣のカレー店「奈央屋」にてランチ。その後新宿に移動して少しだけ業務。年内にやらなければいけないことが終わる気が全くしない恐ろしさ。考えれば考えるほど恐ろしくなってくるので、そんなときは考えるのを止めて以下のようなイベントに出かけてみる。ずいぶん前に知って、少し前にウェブを見たならば「満員御礼」の文字が。でももしかしたら当日だって入れるんじゃないかな、と思ったのでとりあえず行ってみる。そして入れた。

坂口恭平『TOKYO 一坪遺産』(春秋社)刊行記念
人間が生きる場所

坂口恭平(建築探検家)× 石川直樹(写真家)

宝くじ売場、靴磨き屋など、大都市のすきまに存在する「人間の巣」をおいもとめる建築探検家・坂口恭平さん。
国境をこえて、人類の根源的ないとなみを撮影している写真家・石川直樹さん。
スタイルはちがっていても、深いところでなにやら共通項のありそうなおふたりによる、初顔合わせです。
人間にとって「住」とは何か。ひとつの場所に根を張ること、あるいは移動することの意味とは。
さまざまな体験談をからめながら、縦横無尽に語っていただきます。

日時:2009年11月26日(木)19:00 -
会場:ジュンク堂書店池袋本店 4階カフェにて


トーク・セッションのテーマは「人間の生きる場所」となっていたものだから、そのような内容、つまり坂口恭平という人にとっての「0円ハウス」や、石川直樹という人にとっての「ヴァナキュラー建築」についての考えが話されるのかと思いきや、話の取っ掛かりこそ少しはそういう話題も上がりつつ、しかし話されていた内容の大半は、プロレスギリギリの現代アートをめぐるトーク・バトルだった。しかし石川直樹という人はともかく、坂口恭平という人については、今年の4月に京都でのイベントで話を聞いていたのだから、そのような内容及び展開(アジテーション)になることも予想はしていた。予想はしていたけれども、その予想を軽く超えていた。ある基準を超えたところでされる話は純粋に面白い。ああいう人のことを一般的に「鬼っ子」と呼んだりするのでしょうか。ともかく途中まではメモを取っていたのだけれども、すぐにそれを止めて聞き入ってしまう。自分としては、二人が何を根拠に表現をし、あるいは何を根拠に「芸術」を定義づけるのかという話をする上で、かなりお互いの(主に坂口氏が)精神的/金銭的なマネージメント部分に踏み込みつつも、それでも(あえて?)踏み入らなかった問題としての「宗教(性)」ということが気になった。



・そしてそのことの周縁を巡るアプローチとして(というわけでもないかもしれないですけれども)「アウトサイダー・アート」のようなものが引き合いに出されたようにも思われたのだけれども、個人的にはそこでの態度は、アウトサイダー・アートを完全に否定する(少なくともあの場ではそのように言っていた)坂口恭平という人の論理に納得させられつつも、ではすべての表現は衝動ではなく、段階的な政治的意見表明かというと、そのような考えにもやや違和感がある。恐らくそこで表現の根拠となるような対象としての「社会」を、国家を運営する「政治的なもの」とは分けた上で、もっと実体のある「コミュニティ」と捉えたならば、それを記録しようとしているのが石川直樹という人で、それを創り出そうとしているのが坂口恭平という人なのでは?というのが自分の理解であって、そこで問題となるのはやっぱり「共同体/共同性」なのだから、どのような距離感を取るにしても「宗教(性)」と無関係ではいられないだろうと思った。



・安易な世代論は避けるべきであろうと思うけれども、それにしたって自分とほとんど年齢の違わない二人の表現者(アーティスト、とカテゴライズする必要もない)が、「テクノジーへの態度」でも「アメリカへのコンプレックス」でもなくて、「住まう」というようなテーマをきっかけに社会を考えていることに、はっきりと何かが求められていることを感じる。それが何なのか指し示すことは、とりあえず出来ないのですけれども。出来ないからこそ引き続き考え中。