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  映像研究

視界の外

・202110121818。作業を引き摺りつつ一旦停止して書いてみる。昨日の(虚)無と比較すれば少しだけ集中することができた。一週間前の相談を経て考え直すことになった箇所について、客観的に指摘を考え、読み直して、新たに1,000字程度書くことができた。「論文全体において『序論』は宣言文」というアドバイスをいただき、宣言文ならば、何も隠すことなく明確に書くべきなのだなと考えて(単純)、書いてみた。

 

・とはいえ自分がアウトプットしたことに対して何らかの指摘を受けると、それを理解して、次のアウトプットの力にするまでに時間がかかる。一般的にどういう時間の長さを要するのかわからないけれども、自分の場合は数日から一・二週間程度は、文章を寝かしつつ、つねに気にはしつつ、時々夢に見つつ、基本的に唸りながら考えることになる。一方で普段自分は業務で学生に対して、色々なレベルでのアドバイス、提案、指摘、講評、などをしているが、あの方達は、よくもその言葉を聞いたりやり過ごしたりと何らかの「消化」をしながら、制作を継続しているのだなと、感心を通り越して驚嘆は大袈裟だが、冷静に考えて畏敬の念を持つかもしれない。

 

・何かをしていて「ふりだしに戻る」ということはない。それを労働と考えれば「修正する」ことは徒労とも感じられるが、何らかの創造である限りにおいて、直すことも、変更することも、切り取ることも、加えることも、その創造の過程でしかない。時間はかかるけれども。そう考えることができるならば。

 

・家で作業をしていて、同じ視界だけで苦しいように感じて、とはいえランニングや散歩に意識が向かわないならば、「せめて」と思いAmazonで本を買う。間接的に研究の力となるような、しかしそれ自体は楽しみの要素が強いと思われる本を何冊かカートに放り込んでみる。昨日と今日で4冊をクリックした。坂口恭平『土になる』、千葉成夫『増補 現代美術逸脱史1945-1985』、小林正人『この星の絵の具』、横山千晶『ジョン・ラスキンの労働者教育 「見る力」の美学』。

 

・あるいは映像を見ることもしたい。山形国際ドキュメンタリー映画祭YIDFF)のページを開いてオンラインで時間が合えば映画が見られることを知る。鈴木余位監督『東北おんばのうた-つなみの浜辺で』を試聴する。机の上、テクストの中、そうした自分の視界の外から印象を受ける必要がある。映像に映る人を見る。言葉が身体からいかに生まれるかがひとつの主題であった。声は意味とは違う多くの情報を伝える。そして顔は声よりもさらに微妙な震えのようなものを映すように感じる。

 

・届いた坂口恭平『土になる』を読みはじめてもいる。存在するものから思考がはじまることが書かれている。描く、育てる、見る。そうした動詞の内実について書かれている。このすべての動きを創造ということもできる。ドゥルーズベルクソンをその思考の動きにおいて、自らの変化と同期しながら読むことが試されてもいる。文章に生命の感じが満ちていて眩しいが心地よくもある。それは自分にとっては希望であり未来であると思える。そして『Pastel』の文章に書かれていたことにも通じるが、自分の身体の「外」にあるものと自分自身が混ざり合う過程が記述されていることに惹かれる。学ぶことがある。