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  映像研究

CREAMにでかける。観賞する。「からだ」について考える。

 
・25日水曜日。晴れて気持ちのよい本日は朝から電車で移動して横浜は桜木町へ。CREAMって何だ?何の略なの?食べれんの?と思いながら向かった「ヨコハマ国際映像祭」は「映画祭」でも「芸術祭」でもなくて「映像祭」っていうところがポイントなのだと思われます。会期終了ギリギリの平日とあって当然といえば当然なのだけれども、それにしたって空いている。空いているのでインタラクティヴ・アートだって優先的に独占だ。あるいは会場の係のお姉さんだってインタラクティヴに近寄ってきて説明してくれる。



・まずは「新港ピア」という会場にて観賞する。安野太郎という人の作品をしばらく観賞する。笑いつつ観賞。街などの風景を映した実写の中に映り込んだものを名指す、という作品。今や古典?の『ハト命名』にも通じるような、映像と言葉の関係で面白がる作品ではあるものの、『ハト』が言葉の記号性やそれを扱うメディアの特性が重要であったのに対して、この作品は名指すことを「声」という記号化しきれない行為であるとすることで、もう少し「からだ」に近い表現になっているところがよいと思った。「からだ」に近い作品は良い。それはあくまでも自分にとっての基準です。あるいはまた別の面白さでいうならば、その会場の奥のラボスペースでの「NPO法人remo+いるといら」という、その名称自体、法人なのか人なのか動物なのか何なのかよくわからない人(たち)の展示は、見るものが並べてある、そのこと自体の迫力という点でとても面白かった。こんなもの(良い意味で)が展示出来るなんて「国際映像祭」も懐が大きいなぁ、と思いつつも、しかしその展示物の中で流れている映像が、色々なアクティヴィティの結果や過程や実験であるとするならば、その全体を見せるという意味で、確かにそれは映像のラボスペースそのものなのだとも思った。人が生活する中から生まれるアクション、そして集まり運動する人。ここにも確かに「からだ」はあるのだと思う。



・もうひとつの会場「BankART Studio NYK」へ移動して観賞する。山川冬樹という人の作品を鑑賞する。とても面白い。面白いといっても笑わない。静かに観賞。父親についてのドキュメンタリー、と記すにはあまりにも余りある作品。あるいは「父親の『声』について」のドキュメンタリー、と言うべきだろうか。ドキュメント映像と音声を使ったインスタレーション作品。ふと、この作品は「一生に一度しか作れない作品」なのだと考える。そして「一生に一度しか作れない作品」について考える。そのような作品は、誰にとっても憧れである、と同時に微妙な違和感がある?というか、何というか不思議な反応を引き起こすことがあると思う。つまり一般的には「それ作ったら、次どうするんですか?」というような。しかし、本当はそのような態度こそが本来なのだと最近よく考える。作品はプロダクトではないので、同じ方法論で、モチーフを代入することで量産出来るなんていう考え方は馬鹿げている。あるいはポップ・アートの偽悪的な部分を、そのまま継承する必然性などまるでないのだとも言える。そしてだから誰もがそのような作品を制作すればいいのになぁと思う。自分にとって可能な解像度の、可能なサイズのドキュメント。誰か(たち)に向けて、誰か(たち)との記憶を留めておくために、表現をするということ。対象は誰かの姿かたちや、その動きやしぐさ、声や文字であるかもしれない。そしてそこには代入することが不可能な「からだ」が存在するに違いない。



・そのようなセンチメンタルな初冬のぶらり横浜への日帰りツアーは終了。往路は八王子周りで横浜線だったのだから、復路は東横線で渋谷へ向かい下北沢と吉祥寺にて途中下車。そのあいだ「からだ」についてずっと考えていた、と言えばそれらしいけれども、ようするにファッションのことを考えていたのでした。更に具体的にいうならば「この冬のファッション」。「必要なもの以外は購入しない」という意味において「バイ・ナッシング・デー=無買日」がずっと続いていたのだけれども、さすがにファッションにはコーディネートという概念もありますのだから、必要/不必要半々くらいではあるものの、CHICAGOにてpatagoniaの「キモ柄フリース」(コピーライト・バイ・Sさん)を安価で購入。キモいけど可愛い柄のフリースは「ネパール・ヘキサゴン」という神聖なような俗悪なような、チャーミングな名称でした。着たことのない衣服を着るとあたらしい「からだ」を獲得するように思う。衣服のディテールが教えてくれる、思いつきもしなかった微妙なからだの動きがあるような気がする。