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  映像研究

2020年後半の「風景」

・振り返る、こともたまにあるのか、照れながら。2020年が、加速こそしていないが、確かに終わりに向かうことが感じられた土曜日。職場に行かず家で作業してみた。来年度の計画を書き、色々な連絡を取り、研究的な作業をする時間はなかった。2020年の始まりの頃を日記を辿って少し見れば、現在とはかなり違う雰囲気の生活があった。あるいは4月や5月の生活はそれともまた異なる雰囲気を持っていた。それはそうだろう。「非常事態」だったのだから。「非常事態」を越え、「新しい日常」という言葉を揶揄しながらも、そうとしか言いようのない雰囲気に包まれ、そして、気をつけながら生きている。気をつけながら、生きながら、物を買っている。主にオンラインで。こんなに物を新規購入した一年はなかったし今後も難しいだろう。もう少ししたらそれを自分のためにリストアップしても良い。

 

・昼に郵便で、坂口恭平『Pastel』という本が届く。買ってみた。制作の時系列で並べられているのだろうか。ページをめくるたびに、解像度が高くなり、遠くまではっきり見えるような、そのような感じを覚えた。巻末のテキストには、パステル画と農作業がともにある生活について書かれていて、特に、土とパステルという素材が似ているという部分に興味を惹かれた。確かにパステルは土に似ている。あるいは土はパステルに似ている。そして「風景」を対象とする制作を「内面と外界が混じり合っている」と表現した部分は、自分がいま写真について考えていることと、ほとんど完全に重なる。研究の参考文献として購入したのではないが、意図せずしかし必然的に繋がる。この言葉はドキュメントとしてあまりにも直裁で、実感としてわかるように思う。

 

それは僕なりの現実に対する解釈ではない。この絵は僕の意見では決してない。説明でもない。こんな風景がありましたという伝達でもない。それは僕がどうやって現実を見ているか、さらにもっと現実を見ようとしたらどうなるのか、という行為の探究である。(以下略)

 

・2020年に、この単純でありつつ深遠な「行為」「行為の探究」をしている人が、どれだけいるのだろうか、と考えてしかし、坂口恭平という人ならば、「誰もがしている」あるいは「誰もができる」と言うだろうか。そして、何かを制作することには、「始めること」と、「道具」が必要だが、それを継続するには、ある次元の「言葉」が、必要になるのかもしれない、ということを考えた。その「言葉」は、当然広告やプレゼンテーションとは関係がなく、あるいは自分自身を納得させる意味でのテーマやコンセプトでもない。そうではなく、しかし「言葉」というより他にないもの。その「こと」を自分は、自分の言葉で、言語化する必要がある。今の段階では、風景を写した写真家の清野賀子の『The Sign of Life』に添えられた、今枝麻子という人の書いている考えを参照してみる。

 

この具体性に根差した世界観を提示する視線を支えているのは、ひとつには具体的なものをうつす写真という芸術の方法論だが、もうひとつは写真家の言語である。まなざしは、じつは言葉によってできている。ここでいう「言葉」とは、身体の奥底にある言葉の体系、世界の把握の方法のようなもので、じっさいには言語化されないかもしれないもののことだ。写真のなによりの特徴は、たしかに言語化を必要としないことなのだが、写真が写真家のまなざしを通してうまれる以上、それは深い意味での言葉と無関係ではありえない。写真上で新たな個のありようを提示することは、たぶん、これまで世界の写真の歴史に入り込んでいなかった別の言葉の体系による世界の把握を差し出すことでもある。

 

・という文章になると、まだ理解ができない。しかし、見る行為を通じて、主体と客体(と捉えられていたもの)が混ざり合う、溶け合う、一つになる(どういう表現が良いのか検討中)、ことの先に何かを考えようとするならば、この「身体の奥底にある言葉の体系」について、自分が、実感として理解しないといけないのだろう。当然、福原信三の写真と写真論について考えることも、いずれこの問題と合流する。こうした風景についての考えこそが、もちろんこれまでも何らかの種はあったものの、9月以降、急速に展開していることが自分にとっては面白い。色々なイメージやテキストや人との会話や日々の出来事を巻き込みながら、もう少し先まで進めたらと思う。中断。

 

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