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  映像研究

行為の記録・2012年夏・その2

 
・生まれて初めて「冷や汁」を作ってみた。あれを考えた人は凄いなぁ。宮崎の郷土料理だと知った。焼いた鯵をごまと味噌と一緒に擦る。そしてだし汁でのばす。きゅうりやみょうがなどを入れる。冷やす。美味しい。美味しいものを「生まれて初めて」作ることは楽しい。


・梅雨らしいような、夏のような、季節が分からないような、気候。日々同じような格好(グレーのTシャツ・黒いズボン・茶色の靴、そのヴァリエーション)をしていると、時々少し退屈する。その少しの退屈に負けて(勝ち負けではない)人は不必要な新しい衣料品を購入するのだろう。しかし例えば新しい(古着だとしても自分にとっては新しい)衣料品を購入する余裕がない、今日の自分のような人間は、その気持ちを持ったまま『ポパイ』というファッション雑誌(650円)を購入したりしてみた。特集は「アーバン・アウトドア・ライフ」。同名の芦沢一洋という人の書籍(講談社現代新書)は、つねに2冊ストックしてあります(誰かに貸す用)が、いずれにしても、そのような、アーバンなアウトドア・ライフが気になりながらも、ポパイ的には渡辺淳弥という人のインタビューと、kolorというブランドがパリ・コレクションで初めてのラン・ウェイだった、という記事が面白かった。ファッションについて、イメージや言葉を、見たり読んだりすることは楽しい。


・実家に帰って日曜日の読書会のために大量の冷や麦(讃岐方面からやってきた)を貰ってくる。電話の横のコルク・ボードに東京新聞坂口恭平という人の記事が切り抜いて貼られていた。そういえば以前母親に坂口恭平という人の本をオススメしたのだった。


・「金曜の東京」という題名の文章が、インターネット上でリンクされていて、それは小沢健二という人の文章だった。毎週金曜日に東京で起こる原子力発電所の再稼働に反対するデモンストレーションについて書かれた、アメリカ合衆国で書かれたらしい文章を読む。「過程、プロセスの中から偶然が生まれる。荒っぽさとか、偶然を経て。」という文章の終わりの方のくだりを読んで、なるほど、と思う。「プロセス」という言葉は何なのだろう。「プロセス」について、思い返すまでもなく、いつも考えている。そして自分の場合は「ああ、この人の文章は自分に感覚にしっくり、ぴったりくるなぁ。」と思う人の文章は、ほぼ例外なく、プロセスということを重視しているのであろうことが、書かれた事柄だけでなく、書く文章のスタイル(というか「感じ」?)からも伝わってくるような気がする。そのような文章は一つの流れのようなものとしてあって、だから途中で区切って「ここまでの要旨はこういうことです」というように要約することが難しいような文章だと思う。それは例えば高橋悠治という音楽家が書く文章を読んでいるときにも、感じたり、思ったりする。あるいは今通っている学校で習っている(ということになっている)フランス文学や哲学の先生が書く文章を読んでいるときにも、そう思う。思考の過程として、流れとして、文章が存在している。


フリッカーの写真群を見返しながら、この数年について少しだけ思い出してみた。楽しい時間。面白かった時間。あんなこと、こんなこと、あったでしょう、という時間。その時間の続きにいる今と、その(過去の)時間の、どこか「終わらないフィクションの時間のような感じ」の外に出てしまったような今を、同時に思う。思うならば、センチメンタルな初夏。「忙しい」と感じるのは、どういうことか。何かの「真っ最中」にいると感じるのは、どういうことか。たぶん、ほんとうは、いつも最中なのだとも思う。