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  映像研究

13/20

20日間の業務のプログラムの13日目までが事故なく終了。満身創痍と頭に浮かびその語の意味を検索すれば満身創痍には至らないことが分かる。正しくは疲労。あるいは疲労の蓄積。

 

・暑さと疲労は結びついてある身体の状態をなす。他者の表現を受け取り反応することはできる。しかし自ら表現することは難しい。そうであるならば、生活のあらゆる場面を「他者の表現への反応」とするような態勢およびそうしたサイクルをつくればよいのか。しばらくはその態勢で続けられることを知っている。

 

・往復の京王線では、クエンティン・ベル『ラスキン』を少しずつ読んでいる。まだ自分の関心の領域には入ってこない。裾野を開拓するように読んでみている。

 

・「自然を写す」と言うとき、それはどのようなことか。「自然を写す」と「自然を描く」は当然異なるが僅かに重なるあるいは隣り合うこともあるのか。その時「自然」とは何か。または「風景」とは。そもそもなぜ外界を視覚的なイメージに置き換えるのか。と考えてみても問いが収束する感じがない。

 

・見ることのなかにある、あるべきと考えている、姿勢や生のあり方を引き出したい。「自然」も「風景」もその思考のための概念。写真は何か。技法ではない。道具とも言い切れない。神秘と言いたくなるが、徹底的に化学・光学的操作でもある。

 

・週末で少しだけ電車に余裕があれば、座席に座りマスクを外し、向かいの車窓を眺めて、空に雲をとらえる。台風が近づいている。雲が全くない先週までの様子と明らかに異なる。夏、の中の、別の季節。季節の変化が植物のうちにありありと見られる場所に行きたい。

 

・このサイクルとは別の動きを、別の知覚を思い描きながら。