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  映像研究

変化(別の)

・後から書いておく記録。二日続けて業務。聴こえないくらいの低音がずっと響いている。あるいは見えないくらいの薄いトーンがベールのようにかかっている。そのような状態として春を感じながら2月を折り返した。日々の繰り返しと一年のサイクルの中で今。年度の業務を終えたショックも少しずつ落ち着いてきた。

 

・昨日思いがけず非常に嬉しかったことは、自分よりも遥かに若いある人に業務の仕事を引き受けて貰うことができたことだった。依頼に対して色よい返事を貰えて、貰えた安心もありつつ、喜びの方が大きかった。この喜びの気持ちはいったい何だろうかと考えていた。

 

・考えて帰宅したならば届いていたのは、能代亨『「若者」をやめて、「大人」を始める』という本で、少し前に「40歳」「40代」を話題にしたブログなどを読み、考えていたときに、どなたかが紹介していたからAmazonで購入してみた。夕食を食べる前と食べた後に読む。著者の方が43歳の時に書いたというその文章には、自分が考えてみたかったことに関わる問題が次々に示されていた。まず題の『「若者」をやめて、「大人」を始める』、そして副題の『「成熟困難時代」をどう生きるか?』という文自体が、確かにこの数年の友人たちとの会話のトピックであり自分の課題でもあった。

 

・本を読みふと思ったことは、2022年(年度)は自分が制度的に「学生」でもある最後の一年になるけれども、自分はこの身分(?)について、さして自分の思考や振る舞いとは関係のないことだと考えていたが、実際には意識していないだけで、自分を大きく規定してきたのだろう、ということだった。「学ぶ者」としてのアイデンティティは「自分こそが未だ何かを吸収する側である」という意識を形成し、その意識が中心に位置づけられたことによって、相対的に「他者に対して何かを提供する者である」という意識は脇に置くことになっていた。

 

・そしてその態勢であることが(その態勢が許されていることが)、限られた猶予期間であることを、本当は知っていた。知っていたのだけれども、知っているにもかかわらず、あまり深く考えないようにすることも含めて、その態勢を維持することに全力で取り組んでいた、ということだろうか。2021年は特にそのような一年であったと思う。色々な具体的な事象を思い出している。

 

・そう考えると2022年(年度)は本当に何かが終わる一年なのだと理解する。理解して少し緊張する。

 

・2022年(年度)が終わると同時に何が始まるのか。冒頭の疑問に立ち戻って、「業務の仕事を引き受けて貰うことができたこと」が嬉しかったのは、自分は本当は「仕事の仕方を伝えること」をすべきであると考えているのだろうと思い当たる。しかし自分にそのようなことが許されるのだろうかとも思っている。大きく惑っていることを感じながら。この先しばらくは、それが業務における自分の役割の中心になるのだろうか。わからない。

 

・夕食は某SNSでレシピを公開されている方がこの季節のメニューとして書いていた「干した帆立を戻した汁に酒を加えて白菜をくったりと菜の花をさっと煮た鍋」。しめには細めのうどん。春の春らしさを感じる。