&

  映像研究

振り返って叫ぶ

・202002131027。自宅で。書くための読む作業を再開しようと思う。ようやくここに辿り着いたよと12月半ばの自分に振り返って叫びたい。今日から3日間は自分のための作業をすることができる。12月の作業と、1月の作業を、それをすべて見ることができる今の地点から整理しておく。

 

・研究に突入する前のメモとして。写真を撮る行為について考えるようになった。そうすると写真をテクノロジーの問題に限定して考えることでは足りないと思うようになり、また被写体として何が写っていると考えられるかで分類したり、その映っている何かから考えを進めることでは途中で頓挫してしまう。たとえば何度も見返す清野賀子という写真家の写真群には、風景を写したと言えそうな写真も、人を写したと言えそうな写真もあるが、そこに通底する思考を考えてみないことには、映されたイメージが写真家の何かを「反映している」という考えの先に進むことができない。これは去年の秋から年末くらいまで特に考えたことではあるが、清野賀子のいくつかの雑誌の仕事(リラックス、スイッチなど)を見て、確信したことでもある。そして写真を写す行為において、人と人が向かい合う、あるいは人が人を見つめるということは、特別なことではないかと考えるようにもなった。「人を写す」ということは、他にも様々にある被写体のバリエーション/ジャンルのうちの一つ、ということではないのではないか。「人を写すこと」はあまりにも捉え所がなく思えるほどそれ自体が複雑な問題であるから、どうしてもそれを遠ざけて、小さく見積もって、冷静であるために他の問題と並列に扱ってしまうが、どうやらそうではないのではないか。なぜなら、基本的には「人を写すこと」を行うのが人であるからだ。という言葉にするとあまりにも単純なことを、もう少し考えてみても良いように思うようになった。大袈裟に、極端に言ってみるならば、すべての写真は「人を写すこと」を含んでいる。それはまた、「すべての写真が言葉との関係を含んでいる」というTHE SIGN OF LIFE冒頭の今枝麻子のテキストとも関係があるだろうか。

 

・このようなことを考えたのは、ボードリヤール『消滅の技法』を読み進める中で、後半ではバルト『明るい部屋』の問題設定と交差し、そこでは「他者」ということがキーになっていると読んだこととも関係がある。撮影とはどのような出来事として記述できるか(誰もがそれを言葉として記述してみる必要があるように思う)。レンズとフィルムが、見ることと留めることとして、カメラという装置に結実している。それを扱うのは当然人であるのだけれども、カメラは人間にはできないことをする。人間にはできないことができてしまう。それがこの世界のある具体的な場所に置かれて働くことがあるという不思議。この不思議それ自体を「他者(的)」であるとも言えるのだけれども、そのこととは別に、カメラで撮影されようとする人が「『他者』に『成る』」ということが起こると、『消滅の技法』でも『明るい部屋』でも考えられていたのではなかったか。そのことは計測できる出来事ではないが、単に思弁的な問題と見做すこともできないように思う。この問題を論じることが目下の課題となるのかもしれない。中断。