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  映像研究

面白いと言うこと

・202012091254。午前中の読み書きする作業を終えて中華三昧の酸辣湯麺を食べてぽかぽかしながら午後の読み書きする作業の前に日記を書いても良い。今日は2020年に残された数少ない家で作業できる一日だった。

 

・昨日の夜に夕食を食べながらNHKオンデマンドで「100分de名著」のピエール・ブルデューディスタンクシオン』の回を視聴する。予想はしていたけれどもこれがテレビで放送されることに居心地の悪さを覚える。居心地が悪いと感じるのはその番組が十分にブルデューの議論を紹介していることによるのか。しかし自分は「ハビトゥス」「文化資本」というような言葉を聞くと、自分のこれまでの様々な言語行為(他者に対する発言、誰に宛てるでもないこのような文章、そして自分の認識のために反芻する言葉)を問い質されているような気持ちになる。それは「自分で考えついたと思うなかれ」でありそもそも「どういう条件のもとで『考える』ことが許されていると思ってるのか」でありまた「何の権利においてその言語行為に他者を引き込むことが許されると思っているのか」でもある。

 

・教育について何か知りたいもっと考えたいと思い今年の春に買った平田オリザ『22世紀を見る君たちへ』も、そういう意味で自分には刺激が強かった。それはひとまず「他者をパターンで解釈しようとすること」に対する解決のされなさであると言えるか。自分は業務上で必要な限りにおいてそのような「眼鏡」を使用している、という認識だが、それはすでに自分の根本的な「見ること」に食い込んできているのではないか、という反省である。そもそも「見ること=知ること」を自在に分割することなどできるのか。

 

ブルデューの『ディスタンクシオン』は「眼は歴史の産物」と書く(書いてあるらしい、探せなかった)。であるならば「美術を教える教育機関」などは、そのような歴史の継承にかかわるのだろうか。そのような教育機関に進学しようとすることが選択に挙がることが既にして階級との関係無しには考えられない、というような話なのだろうか。

 

・写真を見ることについての調査は特に興味深い。そして恐ろしい。「木の表面の写真」を見て「美しい」と思うことは、文化資本が、社会階級が高い、ことと相関関係にあるとされていることをどう考えれば良いのか。あるいは「老人の手の写真」を見て、老人についてではなく「文化」「作品」として考えることは、どういうことだと考えられるか。伊集院光という人は「身近にいないのっていう感じです、僕は。ようするに身近にこんなに手が、その、しわしわになるまで働いてる人を、身近に居ないから、極端に綺麗な方に誇張して芸術の話にしていくっていうのも、あるかなと思って。」(この部分書き起こし)というとても腑に落ちる発言をしていた。自分ならば、その写真を見て、何を思うか。そして「何を思うか」と「どんなコメントをするか」にも多少の(あるいは大きな)違いがある。そもそも何かを見てコメントをすることが自明のことであると考えること、自らのコメントが意味を持つことを当然のこととして受け入れていることは、その自らが権力を持っていることを意味する。これもブルデューの問題の範囲なのか。

 

・同時にふと思い出したのは、スーザン・ソンタグの夕日の話だった。すぐに必要な引用ではないけれども、写真について、自然について、精神について、美について、それらの関係について考えているから、どこかで交差するかもしれないと思っていつかまた考える時のために、本を引っ張り出してメモしておく。

 

以前は美という概念の長所だったものが、その負い目になった。あまりにも一般的、あいまい、穴だらけであるがゆえに、かつては無防備に見えた美は、それとは逆に、多くのものを排除する存在として指弾されるにいたった。かつては肯定的な能力(洗練された判断力、高基準、気むずかしさ、という意味合いでの)とされていた選択眼は、否定的なものへと変わった。それは、自己と同定できないものごとの美質を認めない偏見、頑迷さ、無知である、と断じられるようになったのである。

美に刃向かう動きとして、最大の成功を収めたのは、芸術においてだった。美は、そして美を重視することは、規制の要素を含んでいた。今様の慣用句で言えば、エリート主義的だった(だが、この新しい動きが起こってからは、何かを褒めるにしても、美しいと言う代わりに「面白い(インタレスティング)」という表現を使いさえすれば、もっとずっと開かれた態度をとっているとみなされた)。

言うまでもなく、誰かがある芸術作品を面白いと言ったとしても、かならずしもその作品が気に入ったとはかぎらなかった(ましてや、それを美しいと思ったことにはならなかった)。たいていは、気に入るはずだと期待されている、そのことはわかっている、との表明にすぎなかった。あるいは、美しいとは思わないにしても、何となく気に入った、という表明だった。

また、美しいという陳腐な言い回しを避けるために、面白いと表現することもあっただろう。「面白い」がそうとう早く、真っ先に勝利を収めた芸術分野が写真だ。新しい、写真的なものの見方によって、あらゆるものがカメラの潜在的な被写体であるとみなされるようになった。美しいものの範疇には、写真ほど広範囲の対象は含まれていなかったし、早晩、美を判断の根拠にするのは野暮のそしりを免れない事態となった。夕日の写真、それも美しい夕日の写真があったとする。洗練された会話のセンスが少しでもある人なら誰でも、「そう、この写真、面白いじゃない!」という表現を選ぶに違いない(この夕日、美しい、ではなく)。

【略】

芸術の美は天然の美よりも優れていて、「より高い」ものだ、とヘーゲルは言う。その理由は、それは人間が作ったものであり、精神の産物だからだ、と。しかし、自然のなかに美を感受することもまた、意識の、そして文化のさまざまな伝統-ヘーゲルの言葉で言えば、精神(スピリット)-がもたらしたものだ。

芸術の美と天然の美、それぞれは相互的に依存関係にある。芸術は、自然のなかの何をいかに享受すべきか、私たちを訓練してくれるとワイルドは言うが、それ以上のことがある(ワイルドは詩と絵画を念頭においていた。今日では、自然の美の基準は、たぶんに写真によって決められる)。美しいものは、ありのままの自然-人間や作られたものの背後にある-を思い出させてくれ、さらに、それによって、私たちすべてを取り巻く、脈打つものも無生命のものもいっさいを含む現実の、まったき広がりや豊かさを感受する力を刺激し、深めてくれる。

これを洞察と言えるなら、この洞察には歓迎すべき副産物がある-美がその揺るぎなさを、その存在の不可避性を再び獲得し、私たちのエネルギー、共感する心、そして感嘆する気持ちの多くの部分を納得して受け入れるのに必要な判断の基礎となってくれる。そして、簒奪的なものの考え方の滑稽さが明るみにさらされる。

「あの夕日、面白くない?」というセリフを[もし自分が言うとしたら、その場違いな感覚を]想像してみればわかる。

スーザン・ソンタグ「美についての議論」『良心の領界』

 

・態勢としてしっかり身についてしまった(染み付いてしまった)、「面白い(と言うこと)」から離れようとして、美しさについて考えようとするならば、「美がその揺るぎなさを、その存在の不可避性を再び獲得し、私たちのエネルギー、共感する心、そして感嘆する気持ちの多くの部分を納得して受け入れるのに必要な判断の基礎となってくれる」のか。中断。