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  映像研究

観に行く

・後から書いておく記録。週の前半に数日間「子供」と時空間をともにしたからだろうか、公共空間でも子供の声を聞き取る耳になっている。最寄りの駅前で親元から脱走する子は「遊びたい遊びたい」と言う。その場合の「遊び」とは何か。全然想像ができないが「Youtube」はまた別の事柄だろう。子供にとって「Youtube」は「遊び」ではない。「Youtube」は「Youtube」だった。Youtubeを映し出すスマートフォンを見つめる表情は「遊び」の最中にいるそれではない。それはさておき自分にとって「遊び」とは何かと考えれば「飲食」と「鑑賞」に集約されるのではないかと思い至る。その意味で今日は完全な「遊び」だった。

 

・「見に行く」翌日が「観に行く」なのは偶然。そういえば「見る」と「観る」を区別することに対する疑問を投げてくれたのはかつて仕事をしたある方だった(備忘録)。それそれとして今日。まずは初台オペラギャラリーで『ライアン・ガンダー われらの時代のサイン』。乃木坂へ移動して国立新美術館李禹煥 Lee Ufan』。さらに恵比寿へ移動して東京都写真美術館『TOPコレクション メメント・モリと写真』と『イメージ・メイキングを分解する』。滑り込んだ写真美術館の図書室で必要なコピーもできた。さらにスクラッチ・カードで獲得した謎のクーポンを使用して焼肉ランチにも行けた。普段ならば決して訪れないオペラシティの高層階へ。食べることと観ることによる「遊び」の一日。

 

・移動中にはリハビリと思って可能な限り読む。月曜日からは業務および自分の研究のための時間になる。つまり夏季休暇らしい日々は今日で終わる。届いたばかりの「映像学」にはいくつかの読みたい論文があった。部屋の床に積まれていた1991年の「美術手帖」3冊はピーター・ガラシ「写真以前」を読みたかったために入手して放っておいた。そうした本をリュックに詰めれば重い。放っておいた・本を拾い上げる・8月の終わり(自由律)。生徒や学生が夏休みの宿題に(遅ればせながら)手を伸ばすように。のろのろと再開する。

 

・帰宅してTravelling Without Movingを流しながら夕食の準備。風が涼しく完全に夏は閉じようとしていることを理解する。旅行のコテージの夕食で講評だった燻製を復習すべく、この数日鶏ももやベーコンを燻製している。煙の匂いにいつかの秋の焚き火を思い出す。夏の曲線は滑らかな裾野のような線を描き秋へ向かう。

 

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