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  映像研究

「写真を撮る」

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・後から書いておく記録。職場の最寄りの駅前で。夕方。予定より到着が遅くなり少し焦りながら地上へ。雨は降っていない。曇り。いつも見ているビルの縁の植物と濡れている地面の感じが目に留まる。写す。まだ空が明るい時間に点灯している照明が最近気になっている。マグリットの絵画を思い出した。

 

・パースがつきすぎていて、不恰好。明るすぎて、軽い。そう感じたならばiPhoneでは角度を調整することができる。それは擬似的に視点を変える操作と言えるか。私がこの場所から「この向きで」撮影したはずの光景は、スマートフォンのアプリケーションによって別の出来事になる。とまで考えるでもないが、少し操作を試みて、やめた。「不恰好」、「軽い」と感じたのはなぜだろう。そう考えてみても良い。

 

・日本語で「生の写真」、そんな言い方もある(しかも時代によって意味が変わる)。

 

・ピーター・ガラシ『写真以前』の図録を持っており、しかし文章は英文で、そのうち翻訳アプリに突っ込もうと考えていたが、1991年の美術手帖に翻訳が掲載されていることを友人から教えて貰って、インターネット古書店を巡り集めた。その文章を読み、わかるようでわかりづらいと感じ、訳者の方が読解の手引きとして紹介していた多木浩二『隠喩としての世界』を購入してみた。昨日と今日は自分の作業の合間にそれを読んでいる。

 

・『写真以前』の理解については元の文章を含めもう少しじっくり読むことが必要だが、別の章で多木浩二がバルトの『明るい部屋』について書いていて(「方法としての感情」)、それを興味深く読む。バルトの(異様な)遺作に惹かれつつ、しかし自身の思考とは重ならない思考を炙り出していく内容。多木浩二はストゥディウムに「人間・社会・欲望・映像」などのもろもろの接続点を見ることで、ストゥディウム/プンクトゥムの二項を切り崩そうとしていると読んだ。この読解はそれとして。

 

・『明るい部屋』が「写真を見る」経験に根ざして書かれた(逆に言えば「撮影する」経験を関心の外に置いている)写真論だという指摘をときどき読むことがあり、今になって、それはとても重要な視座だと考えている。素朴に言って、「写真を見る」ことと「写真を撮る」ことは、全然違う行為なのであって、それらが時に「写真論」の語で扱われる(こともある)というのは混乱した事態だと思う。

 

・「写真を撮る」について考えようとした時に、色々なアプローチがあり得る。中断して。