&

  映像研究

肌寒くもある

・後から書いておく記録。月曜日は自宅で自分の作業。とはいえ今日は書く作業には入れず午前中はメールと部屋の片付けなど。昼食を挟んで午後はオンラインで業務の会議。その後授業で上映する予定の映画を一本まるまる見ていると夕方に差し掛かりつつあった。書く作業の一日とそうでない一日は時間の過ぎ方が違うように感じる。どちらがはやい/おそいとも言えないが、書いているときにはやはり特殊な集中の仕方をしているのだろう。

 

・久しぶりに映画を見る。しかも同僚の提案した映画だったから自分の意志でなく映画を見るということ自体が新鮮だった。昨日考えていた『映画を早送りで観る人たち』の問題も過ぎりつつ、しかしこうしてひとつの映像作品を鑑賞していると、内容とは別に、あらためて自分は映画ないしは映像を見ることに何を求めているのだろうか、という根本的な考えに突き当たることになる。

 

・「現実を見たい」と言ってみる。あるいは映像を見ることを通じて「現実に触れたい」と言い換えてみる。言ってみた上でいつでも繰り返し考えることは、映像を見ることで「現実を見たい」と考えている自分が用いる「現実」という語が、極度に理想化された(という表現は最適ではないが仮に)現実であるかもしれないことによって、直ちに「ファンタジー」と呼ばれるものに結ばれる(可能性がある)ことだ。というか自分は「現実を見る」という語を文字通りの(?)「人や物が存在している様を見る」という意味で用いており、可能な限りその存在している様の純粋な状態を見たい(純粋な状態を映し出してしまう点が映像の特性だと捉えている)と考えているのだが、それを「現実を見る」と言うべきかどうかは微妙なところなのかもしれない。

 

・たとえば映画であれば、「現実を見る」という語は「隠された裏側を見る」という意味で用いられることもあり、ともすれば「見せたくない恥部を見る」というような意味でさえあり得る。まったく別の議論として。しかし「隠された裏側」とは何か。そんな語彙を用いる人を勝手に想定して仮想敵にすること自体が「隠された裏側」という発想なのだろうか。フィクションであれドキュメンタリーであれ(便宜的な区分として)、「隠された裏側」は無い。無いということ自体もコンセプチュアルな言説なのだろうか。などとぼんやり考えていた。

 

・自分の思考は進み続けている。一方で、どこかで「18歳前後の映像に興味を持ち始めた人」の思考を想定して、その間合いをはかっている。それはもう仕方がない。

 

・諸々を切り上げて買い物へ。コーヒー豆を定期的に買う店が3店ほどあるが、今日は車で稲田堤のコーヒー屋へ。豆で買うことが殆どだがこの春から、朝起きてミルを回す余裕がなくなり粉にして貰うことが増えた。しかし粉にして貰う時にいつでもミルを回す時間の意味について考える。

 

・コンビニで「VOGUE」を購入。宇多田ヒカルのインタビューを読みたかった。インタビュアーがジェーン・スーという人である点も含めて興味深いと思っていた。誰かの思考を読むこと、誰かが自身の思考を言語化した文章を読むことが必要だと最近あらためて確認した。インタビュー記事では、この現在も完成された何かではなく変化し続ける流れであることが語られ、書かれていたように思えて、そのことが良かった。