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  映像研究

無意味あるいは失敗

・帰宅する京王線で考えていたことを翌朝書いても良い。レジャー明けの日曜日は通常業務。9:00から19:00までが雪崩を打つように過ぎる。イベント的な授業で少し前から準備をしてきたが無事に終わることができて良かった。細かい反省はいつものように多いが、持って行きたいところまでは到達できた感触がある。終了後に同僚と「種を蒔く」ことについて話す。

 

・数日前に本屋で手にした本は少し前に知って気になっていた『映画を早送りで観る人たち』。わざわざ傷つくために読む種類の読書がある。なぜ傷つくのか。傷つく(と思っている)自分は何を思っているのかあるいは何を「信じて」いるのか。本の題が次々と問いを生み出すから、こうした本こそは出版されるべきだったと思う。「若者論」という枠組みが持つ危うさを差し引いても、映像について書かれた本としてこれほどに考える手がかりとなるものは無いだろうと思う。

 

・とりわけ「映画(映像)を早送りで見る」という行為のうちに、「失敗を恐れる」という心理を見出している点が興味深い。鑑賞すること自体が「失敗」であるような、無意味な作品というものがこの世界に存在するという理解がもしもあるのならば、それが正しい/正しくないということではなく、面白くはある(面白がることはできる)。あるいは「意味のある時間」と「無意味な時間」という線引き。と、このように書いてみて、こうした「面白がる」ということ自体が何かの欺瞞のように思われる可能性を想定しておくべきということも考えた。「積極的に面白がる」ことは、何か政治の匂いがするかもしれない。自戒を多少込めつつしかし別の回路を探る。

 

・一方で、そもそもこのような問題は自分の問題ではない、という気持ちもある。早送りかスキップかは重要な問題ではない。自分は映像(写真も含む)を見ることを必要としているのであって、映像を見ることを本当の意味で必要としていない人とは対話をする必要がないとさえ思っている。思うようになってしまった。

 

・というこの「映像を見ることを本当の意味で必要とする」という語彙も便宜的なものでしかない。あらゆる人があらゆる理由で「映像を見ることを本当の意味で必要としている」のだろう。だからこのように言い換えてみる。他者とのコミュニケーションと関わりなく自分が善く生きるために映像(写真)を見ることを必要としている、と。しかしそれは本当だろうか。強弁(ポジショニング)ではないか、とすぐさま自分に問う。他者は想定している。しかし他者が存在することと「ともに」、自分は「自己なるもの」を想定する。その自己が形を保つために映像(写真)が必要である。このとき「映像」は「実写」であるべきという自分の(独自の、と言ってみて)信念がある。その信念についても考える必要がある。

 

・本当は映像の事などを他者と話しても何も意味がないのだろうか。「作品」や「表現」を制作する最前線にいる方々は当然のことながら、何らかの形で自分の仕事、労働、実践、趣味と「作品」や「表現」が関わる人たちは皆、こうした「意味/無意味」の境界を揺れている。それはこの時代がこのようであることと、どのように関係があるのだろうか。中断して。

 

・無意味あるいは失敗について考えながら、夜の道を歩きながら、かつて自分がフィルムで写真を撮っていた頃には、積極的に「無意味あるいは失敗」に近づこうとしていたことを思い出した。それは1960年代前後の現代芸術あるいは現代写真の動向を学びそれをなぞる(もじる)に過ぎないけれども、過ぎないからその方向はすぐさま閉ざされるあるいは引き返すことになるのだろうが、しかしそもそも「無意味あるいは失敗」に目を向ける、とはどういうことなのだろうか。そして引き返すことなくその道を真っ直ぐに進んで行くような友人の後ろ姿があったかもしれない。それは確かめようがない。

 

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