・潮目が変わったと思うのは、誰もが生活の「痛み」を感じていることによるのか。何かあろうと何もなかろうと、書いておくことで日々を理解する。なるべく適当に(率直に)書きたいと思うが難しいと思うのは自分が文章を書くことのスタイルのようなものが作られてしまっているからだろうか。スタイルという言葉が軽ければ姿勢か。言葉をどのような重みで扱うかということが、これまでの生活の全てに影響されている。今この現実が生きられる突端の思考の動きを左右する。簡単に姿勢を変えることはできないが、できないからこそ変えようとしてみることは重要なのではないか。言葉を変えると思考も認識も変わる。そういうことを考えていた。
・そういうことを考えていたのは、一日業務のマニュアル的なテキストを書いていたからで、マニュアルとはいえ「誰にでも伝わりやすい言葉」などあるのだろうか。自分は誰に語りかけようとしているのだろうかと考え始めるときりがない。そういう思考をSNSに持ち込むとさらに際限なく考えてしまうから、クリアにカットすべきはカットすることを試みる。
・メモ。上のような意味で「言葉が現実をつくる」ということが確かにあるならば、ではそれを踏まえて「映像と言葉」とはどのような関係であると言えるか。映像は人の発話の微妙な雰囲気も記録することができる。つまりカメラとマイクは現実が生まれ出るその先端を記録することができるということなのか。あるいはカメラとマイクがあるからこそ、そうした発話が引き出されるという関係があるのか。ジャン・ルーシュ=田中功起の問題系。これは自分の修士論文のテーマでもあった。一方で「映像と言葉」の関係という問題は、必ずしも人を写した映像でなくとも、例えば風景や事物を対象とした映像であっても、考えられるだろうか。「コミュニケーションの道具」ということをある程度までクリアにカットした上で、カメラ(とマイク)とは何か、ということを問うことはできるだろうか。これは今の自分の研究課題。
・夕方に総理大臣の緊急事態宣言についての会見を見る。その続きで夜は芸術公社のオンライントークイベント「ウィルス時代を生き抜く、芸術の想像力とは」をところどころ抜けながらも聞いていた。正直なところ、今の自分の感覚としては、この状況を「語る」ことを見ることが苦しい。「ああ、語れてしまうのだな」ということが、おそらく平時も抱えていたであろう(潜在的に)、そうした「語り」に対する微妙な違和感を増幅する。とはいえ、その苦しさを認識した上で、その言葉を聞いてみれば、ひとりひとり異なる思考を続けている、今も最中にいるのだということを感じることもできる。高山明という人が「つくることで考える」という言葉を発していたことが一番印象的だった。「書くことではなくつくることで考える」という方法を選ぶ(選ばざるを得ない)人がいる。そのとき「つくる」ことも「言葉」と考えられるようにも思う。
・座談会への学生のようなつっこみとしては、話者の「まさに、」という語が気になった。オンラインで聞いて(見て)いたことも関係しているのだろうか。まさに、は「正に」か。みんな一分に一度くらい「まさに」という。そういえば自分も時々使う。たとえば「講評」のときに。「まさに」という発話には、壇上に登っている人が、さらに一段高い段に足をかけるような印象がある。あるいはその言葉を聞いた者たちは、メモしていたノートからふと一瞬顔を上げて話者の方に顔を向けるような印象がある。ただしオンラインのレクチャーで一分に一度「まさに、」と言われると、その言葉の持つ、アクセントとしての機能はすっかり均されてしまうようにも感じた。これはメモ。
・見ながら友人から先週送られてきたカレーを食べて一瞬で寝る。