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  映像研究

メモ(問い)

・202108241758。夕暮れと言うよりも日暮れと言いたい。薄曇りが次第に闇に変わるのも良い。家のデスクで。デスクライトを点けて。文章を書く作業を脇に置いて、普段読まない本をぱらぱらと開きながら、思いついて紙にシャープペンシルで書く。あるいは友人に尋ねられたことを想定して言葉にする。そうしたことで一日が消える。それらは文章を書く作業の準備ではあるのだけれども、なるべくそのことを意識せずに応える。応えるように考える。自分が何を問いとしているのか、をくっきりとではなく描きたい。明晰にではなく把握したい。固定せずに自分の思考を動かしたい。

 

・福原信三の言葉をメモする。どういうことかと一日考えている。

 

視覚は面と深さを知覚するが、美は知覚しない。美は統覚以上の作用によって知覚されるから、脳髄でものを見るように工夫されたいと思う。表現は見た結果であるが、そういう事になるには、視た眼と視られたものと有機的の関係ばかりでなく、そういう事になる因縁、結縁だという事になった結果である。芸術としての対象物と眼の関係は、斯の如く深い。硝子に映ったものを、節穴で覗いた如きものでは、自身を侮辱する事になるであろう。

 

・「そういう事になる因縁、結縁」という箇所が気になる。写真と映像の違いはあるが、先日聴いたポッドキャストで映画監督の杉田協士さんが話していたこと、ーー「どこを切り取ろうが世界はある」「狭いところだろうがそこをちゃんと撮ってると」「フレームの外も見えてくるようになる」「ここがこうな理由はこっちにもあるから」「こっちがあるから今ここがこうなので」「ここがちゃんと撮れてれば自ずとそのまわりの世界も見える」(部分的な文字起こし)ーーとも関係があるだろうか。しかしこのようなことはたとえば正規の(?)映像教育の中では、実はあまり言われないように思う。自分も聞いた記憶がない。きっと誰かは自分に対して言っていたのかもしれない。自分の方にそれを聞き理解する考えが育っていなかったのだろう。映像は四角いフレームに情報を適切に詰めるものだ、と、今でも油断すると言い兼ねない。

 

・福原は別の箇所で、少し単純化すると、「構図」とは「絵画に固有の発想」であると書いている。絵画に固有の発想である「構図」を写真に適用=流用する必然性がない、と書いている。この問題を考えている。中断して。

 

・各所への連絡を脇に置いて、Youtubeに上げられていた(ことは知らなかった)、佐藤真『SELF AND OTHERS』を見る。時々DVDで見る。理由がなければなかなか映像に突入することが難しい自分が何度か繰り返し見ている数少ない映像であり都度見て感じて考える。見つつ本棚から引き抜き『日常という名の鏡』『日常と不在を見つめて』の写真について書かれた箇所を流し読む。田村正毅の撮影から考えられることがある。映画も当然フレームということが存在するが、フレームに規定されない撮影があり得る。そのことが考えていた問題にも通じる。

 

キャメラマンの田村正毅は「気」を撮る撮影監督である。構図や奥行きではなく、フレームの外にひろがる空間とフレームの中に流れる時間を撮ろうとする。だから、田村の撮影の狙いは、どうにも言葉で表しようがなく、田村本人の言によると「ただ、なんとなく良かったから」という感覚的な言葉にしかならない。(略)

 

・「フレームの外にひろがる空間」と「フレームの中に流れる時間」は、しかし写真においてはどうだろう。決定的に断裁されたイメージに、現実の世界を見ることが本当にあり得るのか。再び中断する。

 

 


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