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  映像研究

心の焦点(水曜日)

・202108041802。今日の作業がひとつの山を越えたから、椅子から立ち上がり、身体を伸ばし、シャワー(3回目)、バナナジュース、休憩。休憩のタイミングで何事かを記録しておく。今日の最高気温は34℃だった。室温は最高で33℃。今は家の中で32℃。たぶん外はもう少し涼しい。夏らしい一日だった。比較的風がある。

 

・わかりやすく運動をして汗をかいた方が良いのだろうか、と考えた。しばらく歩いたり走ったりしていない。確認するまでもなく岩盤浴やサウナなどの施設にも約一年半行っていない(春の山登りの時を除く)。夏らしい、と書いた直後にしかし、これが夏だったのだろうか、とも考えた。

 

・日記を読み返したならば、ちょうど一年前の今頃から本格的に福原信三について考え始めていたのだということを知る(気づく、あるいは、思い出す)。そして今日は丸々一日、1921年から1923年までの福原信三に関連した雑誌を読み直し、気になったことをメモする。書く前にはまずは読むことが必要だった。毎月出版されていた雑誌に掲載された写真についての文章を読んでいると、その言葉の元にある人間の思考には、ゆらいでいる部分と、まったく変わらずにある部分とが、ともにあるのだというふうに思えた。面白いな、と思いながら読んでいると、途中少し業務連絡などあったとはいえ、10時間くらいがすぐに消えた。

 

・お昼にいつものレトルトカレーを食べながら、世田谷美術館で昨年行われたという「作品のない展示室」のパフォーマンスの記録を見る。映像を制作したのが映画監督の杉田協士さんということを知り、またその記録の過程について話されている動画も見て、自分が今考えているのは写真のことではあるけれども、通じるかもしれないと思うことがあったから、メモしておきたいと思った。

 

・「心のフォーカス」という言葉を使われていたのが印象的だった。それは「何かを見る」ということだろう。動き=存在に惹かれることとも言えるだろうか。視覚を用いて生活している場合は、そのように、身体の外の存在を享受することと、見ること、がわかちがたく結びついているのだと思う。映像に写されていたのは、パフォーマンスという見ること/見られることに特化した状況ではあるけれども、生きていることと切り離された、あるいは、生きていることの極端な象徴であるような場とも言えない。

 

・目の前に物理的に、現れている「こと」や「もの」だけを見ているのではない、ということが、このようにはっきりと理解できるという経験が新鮮だった。それは映像なのだけれども。映像だからこそ理解できたのか?

 

そして「カメラのフレームは世界を区切らない」ということも話されていた。フレームの外にも世界はある。世界はカメラとは関係なく(「動じずに」とも言われる)存在している。それは理解ができる。というか、理解している、と思って生きている(が、本当に、わかっているのだろうか?)。そして、しかし「にも関わらず」カメラはある、ということもできる。あるいは、カメラは道具であり、機械ではあるけれども、存在と見ることと関係している、と思っている。

 

・映像は、「ここにある」、とすら言わない。何かを視覚的に差し出すことをする。あるいは、カメラを道具として用いる者が、映像を差し出すことを助ける。より厳密には、カメラを道具として用いる者とカメラという道具は、取り替えが効かないそのペアは、協働して、映像を差し出す。その映像を「世界の断片」などと不用意に(批判ではなく自戒)言ってしまいそうになるが、本当に「断片」という語で良かったのか。切れていないのならば。「部分」という語すら適当ではないかもしれない。では何と言えるのか。

 

・とここまで考えたところで、いつもお願いしているディーラーの方から電話あり、引き戻される。そういえばしばらくiPhone以外で写真を撮っていない(撮りたい)。

 


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