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  映像研究

不穏な未来に/手を叩いて

・朝の連続テレビ小説いわゆる朝ドラをこれまで一作品も通して見たことがない。8:15に家にいることがなくまたテレビを置かない生活も長かった。という理由にも増して、もっと端的に、かつては若い者の若い一瞬を描いたドラマにのみ自分の焦点が合っていたということだろうか。家族が現在放送中の朝ドラを視聴しており漏れ伝わってくる情報から多少の設定を把握している。主人公の名前や岡山が舞台になっていることなど気に留まることはあるが、そうした諸々にも増して主題歌が気になっている。生活の中にその言葉とメロディがインストールされている。

 

・とりわけ「不穏な未来に/手を叩いて」という箇所が歌われると、あるいはその箇所を歌ってみると、反射的に沸き立つ感じがある。それはまずもって現在が不穏と感じられることによる。そしておそらくはこの歌が毎朝聴こえるこの現在に、その不穏さは多くの人にとってより深刻に感じられるようになっているのではないか。連続ドラマや流行歌は時々予言のように近未来を映す。何度か聴いた時には「不穏な時代に」と覚えてしまっていたが、不穏なのは朧げな「時代」なるものあるいは現在ではなくむしろ未来だった。未だ来ていない時間を不穏に感じるということ。そしてその「不穏な未来」に対して手を叩くということ。「手を叩く」とは何か。どのような行為で、どのような感情によるものか。感激。感嘆。迎え入れることあるいは送り出すこと。リズムを作り出すこと。色々な状況で人は手を叩く。では「不穏な未来に/手を叩いて」とは。文字通りの意味を読み込むことばかりをしてきた自分にとって、このような思考は新鮮でもあった。意味を考えれば小さなしかし確かな違和感がある。「不穏な未来に」と「手を叩いて」が、ぶつかるように想像される。

 

・手を「叩いて」であることが重要なのかもしれない。手を「叩こう」でもなく(呼びかけではない)、手を「叩けば」でもなく(行為の事実を描いているのではない)、手を「叩いて」。この「叩いて」が表現するニュアンスについて数日考えている。とらわれてもいる。もっともニュートラルな表現であるように思える、この「叩いて」が、なぜ聴く人間の感情にこのように作用するのだろうかと考えていた。メロディの震えもある。その震えが、立ち上がり前進するような感じを浮かび上がらせるのか。

 

・このように微妙な日本語の表現のニュアンスの違いが気になったのは、最近俳句について考えていることによるかもしれなかった。「古池や」の「や」について考えるのが俳句を読むことならば、そのような思考をあらゆる言葉に向けることもできる。そして言葉の微妙なニュアンスの問題は、コード=規則の問題だけではなく、身体の問題でもあり得る。「手を叩いて」には、た行が多い。「叩いて」の「て」は「手を」の「手」と同じ音だった。舌が上の歯の裏を叩くように発せられる「て」と「た」によって、息が勢いよく発せられるから、身体の前方に意識が向かい、目が開かれるように感じるかもしれない。そしてその破裂するように開かれる感じが、暗闇のサーチライトのようにも感じられるかもしれない。

 

・そのような思考を自分の内に積もらせながら帰宅する京王線。新学期の二日目が終了。誰も言葉を発しない教室は期待と不安に満ち満ちている。その息が詰まりそうな感じに駄洒落のように未知を重ねてイメージする。しかしいずれにせよいつかこの緊張も解けて忘れられていく。

 

・明日は散り行く桜の下で(ひっそり)集合する予定。春の中心から少しずつ後半に移り変わっていく日々。