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  映像研究

合宿のような(2022年3月の)

・202203011830。集中が切れたタイミングで何もテーマを立てずに書いても良い。デコポンを食べて今。昨日に続いて丸々家で作業ができる合宿のような一日が終わろうとしている。途中15:00前後にかなり厳しい状況(これまで掘り進めていたトンネルが途中から見当違いの方向の岩盤を砕いていたのではないかと途方に暮れる)に直面するが、一旦冷静になり、自分の書いた文章と研究対象のテクストを読み直したならば、まだ進められると思えた。危なかった。

 

・午前中は晴れて暖かくなったから、春だと思い、家中の布という布を洗いたかったが、布団のカバーもシーツも先週洗ったばかりだから、代わりに毛布を干す。干して叩く。毛布に蓄積した熱が空中に放たれるように感じる。冬を宙に放ち春を迎え入れる準備をもっと深く味わえたならば。

 

・ふと思い出してちょうど去年の今日、3月1日の日記を読んでみれば、それを書いている人は学会誌に投稿する論文の締切に追われているようだった。「途中で諦めるかも」と書かれているから、反射的に「諦めないで頑張ってください」と思う。その念の矢印をそっくりスライドさせて始点を未来へ。未来からから現在へ投げる。「諦めないで頑張ってください」を私が受け取る。業務の突然の連絡が飛んでくることのないように祈りながら。

 

 

 

・土曜日にようやく鑑賞できた『春原さんのうた』から考えたことも書いて残しておきたいと思いつつ、色々な考えや、思いや、記憶が浮かぶが、もう少し放っておくのも良いのではないかと考えている。あるいは、現在の恐怖や呆然とは別の意識で考えてみたいと思ってしまったが、そんなことは可能なのだろうか(あるいは「そんなことは許されるのだろうか」という疑問も浮かんだ)。

 

・そういえば今朝久しぶりにとても鮮明な夢を見た。なかなか会うことができない友人と再会し、そのことを喜び、相手の身体を強く掴み、「たぶんこれは夢だと思う、でもそれでもいい、会えてよかった」と伝えると同時に夢から覚めるというエモーショナルな内容であり、その夢を見た理由も理解できるから(昨日読んだ本からその友人のことを思い出していた)、目覚めてしばらく、いかに自分はわかりやすいのだろうかと思っていた。

 

・機械映像のない時代には夢とはどのようなものであったのか。機械映像のない時代には果たしてこのように鮮明であったのか。あるいはこのように儚いものではなかったのではないか。とりとめなく考えを浮かばせる。中断。