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  映像研究

撮ると話す

・202201292229。帰宅する京王線で書いている。通常業務とは異なる映像制作業務によって13:00から22:00までが消えた。今日ほどに「消えた」という感じの日もそう無い。言葉を失いつつあるがその中で今日らしさを言葉で記録することはできるだろうか。

 

・単調な労働と感じられるような仕事の中にも、いつでも学びはある。この仕事のたびに久しぶりにムービーのカメラを扱うがそのたびに同じ感じと自分自身の変化を感じる。何事も繰り返せば学びがあるということだろうか。

 

・ムービーのカメラを構えて話し出すタイミングを合図する時に、その合図の仕方の微妙なニュアンスの違いによって、話される内容には違いが生まれる。カメラを構える私とレンズを向けた他者との親しさも関わる。それは当然のことだが果てしなく深くて面白い。たとえば「撮ります」ではなくふと「撮らせてください」と口にしている時、自分のうちに何を感じているのか。あるいは考えているのか。そう反省的に思考することもできる。しないけれども。

 

・あるいは「撮ります」や「回します」と声に出している時でも、気持ちの中心には「撮らせてください」という言葉がある。「撮らせてください」と思うべきという信念のようなものもあるかもしれない。カメラの前で言葉を話す人は、カメラを構える私のために話しているのではなく、いつかそう遠くない未来にこの映像を見る人に向けて話している。しかし話すことを求めているのはカメラを構える私であることも事実である。そのズレ自体に、あるいはズレとしての自分の存在に、時々気づいて驚くこともある。

 

・最寄駅に着いたから中断。