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  映像研究

写真を撮ること、それも練習

 
・写真を撮ることを忘れていて、忘れていたからには、急に思い出した。「Flickr」をやっていた。Flickrに写真をアップロードする日常があり、Flickrにアップロードされた写真を見ることで季節とともに変化する友人知人の生活を知るような日常があった。しかし年末に白いMacBookが急病に倒れて以来、ログインとか、アカウントとか、パブリックとか、そういう色々なディテールを忘れていた。今、そのような写真とともにある生活を思い出す。


・あるいは別の意味でも忘れていた。去年の春に今の家に引っ越して以来、しばらくは身の回りの写真を撮り、しかしあまりにもフォトジェニックな住宅ではあるけれども、どこかで撮影の対象とすることに躊躇いがあった。写真に捉えることが難しい。そしてこの住宅は決して自分が所有している住宅ではない。そんな思いを持ちながら、人は見ることよりも触れることを選ぶのか、どうなのか。しかしそのような住宅と自分の距離感は、それはそれとして、さしあたり、写真とあるいは映像によって、自分の生活をもう少ししっかりと記録しておこうと急に思い立った。


・写真を撮ること、自分にとってはそれこそがすべての基本にある練習で、写真を撮ることによって、目の前の物事を良く見るようになるかもしれない。あるいは現にここにある物事と、ここにはない物事について、言葉にせずとも、それを考えるためのきっかけとして写真を撮ることはあるのだと思う。文章を書くことすら、それは写真を撮ることの練習の結果としてあるのかもしれない。だからそれを続けようと思う。スナップ・ショット。


・ふと「これが(このカメラが)フィルムだったら良かったのになぁ」と思わないこともない。36枚撮り終わったら近所の本屋だか文房具屋だかに持っていって「プリント0円」でプリントしてもらう(現像代は500円程度)、そして朝出せば夕方には36枚のそこそこに美しいプリント写真が手に入れられる。そんな奇跡のような時代が、この場所にはあった。おそらくはそれはたったの数年の間のことだったのかもしれない。ビックミニ。GR-1。それらのカメラによってつかみ取られたイメージは、その場では見ることができなかった。今やそれを不思議なことだと思うのか。


・デジタルイメージについてだった。デジタルデータのイメージが、現在の自分に過去の何かを感知させることについてだった。