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  映像研究

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・201905210959。強い雨が降る火曜日。今日は一日を家で過ごすことにする。テキストの読解、テキストの執筆、フランス語学習、業務の制作、業務の準備、業務連絡、やることは沢山あり、しかし今日は「家でできることをする」と決めた。決めたならば気持ちは楽になる。

 

・そういえば先週熊本の友人の家に遊びに行った時に、10年くらい前に金継ぎを頼んだ割れた茶碗を継がれた状態で返してもらい、不思議な、確かな、嬉しさを感じた。時間を超えて手に届いた品。それは元々は20年くらい前に沖縄に旅行に行った時に購入したものだった。

 

・身の回りの物がすべてその茶碗のようであったならばと思うけれども、つまり同じ物を気に入って直しながら使い続けられたらと思うけれども、それはそれで物足りなく感じるであろうことも予想できる。飽きる。

 

・昨日は思い立って銀座シネスイッチゴダール『イメージの本』を見に行ってきた。職場の方に教えてもらって、そうか今上映しているのだなと思って鑑賞。編集と引用、その波に飲まれる。『ソシアリズム』でその波に乗れたと思ったが、前作の3Dは完全に記憶にない。面白かった。機会があればもう一度見たい。

 

・イ・ランと柴田聡子のアルバムを聴いた4月と5月だった。特に「ランナウェイ」と「バカ 漏斗」を繰り返し聴き、熊本旅行のドライブでも聴いたならば、ある曲とある時期の記憶が結ばれるだろう。いつかこれらの曲を聴くと2019年の春のことを思い出すのだろうか。

 

・それにしても本を読むことができない。時間が取れないということもあるし集中ができない。それを業務のせいにするのはつまらない。今は労働の何かをまとめてする時間だと考えるしかないだろう。その合間に辛うじて書くことをする。

 

・ムービーのカメラ「OSMO pocket」も全然使えていない。遊べていない。やはり4KムービーアクションカメラとFUJI GW690Ⅲを片手ずつに持つのは、あまりにも欲張りすぎ、分裂しているのか。今の自分は6×9で写された写真、そして写す行為の方に新しさと確かさを感じている。

 

・用事があって、もう8年くらい放っておいたHDを開いてみたならば、そこには写真と動画のファイルがある。買ったばかりのcanon7Dで撮ったフルHDの動画は新鮮さに満ちている。あるいはさらにその前にはxactiで撮った640×480の動画もある。2008年の自分は片手に収まるムービーカメラで撮影された動画に、何らかの新しさと確かさを感じていたのだろう。感覚も、考えも、価値も、気分も更新される。

 

・単語帳と文法書の合間に読めないなりに読んでいたのは西山雄二『哲学への権利』という本で、学びの「場」を作ることの価値と困難を思い出して、今の自分にはそれが重々しく感じられる。学びの「場」を作ることは、それ自体困難であり、持続させることはほとんど不可能に思える。そして「持続しなくて良い」も「とにかく持続させよう」も両方とも正しいと思える。今ならば、どのような「場」ならば可能なのだろう。

 

・中断。