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  映像研究

昨日と今日、時々20年前

・202201301842。家のデスクで書いている。何かと何かの隙間に日記。

 

・昨日のこと。こんなはずではなかったと思いながら23:00に帰宅したならば家族が準備してくれていた湯豆腐など食べて温まる。息を吐く。ビールを飲む。

 

・友人たちがオンラインでミーティングしていて、友人が仕事で制作したショートムービーを見たりしている様子。限定で公開されているその映像を先に視聴した上で遅れてログイン。その映像を見たら元気が出てきた。制作の話を聞く。自分の感想を伝える。他の友人の感想を聞く。2021年に撮影されて2022年に公開される映像には、世界の事情が刻まれている。あるいは写されている。描き出されてもいる。ひとつのアクティヴィティとコロナ禍をきっかけにして、まったく雰囲気の異なるふたりの間に交流が生まれるという内容で、自分はその映像を見て、ふと息をつき身体が緩むような感じを得た。そして制作した友人が「希望」という言葉を使っていたのが印象的だった。

 

・熊本の農園の友人は数日前に空気の中に「弛み」を感じたと話していた。自分も同じようなことを感じていたから、その話を聞きながら時間が確かに動いていることを思うことができた。あるいはその時間と並走するように、その時間をごぼう抜きするように、めりめりと動き出すまた別の(別でもあり同じでもある)力を想像した。「本当に待ち望んでいるならばよく見ようとする」ことを今年の春に学んだ。しかしそれは当然のことでもある。微細な変化を見過ごさない、という態勢が、他のある人にとってはサインではない何かをサインとして受け取る知覚を生み、育てる。

 

・別の友人は衣服をつくる仕事をする家族と一緒にデザインについて考えることがあるという話題から、転じて時折話される「この年齢における装い」の問題について議論する。あるいは同年代の女性は子供を産んでしばらくは洋服を選択する意識がはたらかないと話していた。また住む土地や生活する中で人と会うことが必要か否かも影響すると話していて、なるほどそうだったのかと思う。自分もまた京王線を往復し学生と呼ばれる人たちと話したりする生活の中で装いを選択している。衣食住の「衣」の重要性を感じ続け、またある意味では年々その重要性が増し続けるという感じを共有した。

 

・そんなことを話していた。皆が生活の中で考えていることを提出したならば、それについて自分の生活に引き込んで考える。気づけばオンラインで行われるゼミのような場だった。今週は自分の担当ではなかったから他の人の発表を聞き学ぶ。そして実際にそのうちの3人は大学で同じゼミに所属していたのだから、何の因果かとも思う。2002年のゼミはなぜか午後からワインを開けるのが定番で、映像と音楽とアルコールと笑いがあった。「20年経ったって」と聞いて、そのことも思い出す。しかしAM3:00はやりすぎた。

 

・今日のこと。頭痛とともに9:00に目覚める。暮らしの手帖社に注文した小沢俊夫『昔話の扉をひらこう』が届き、巻末の息子二人との「子どもとことば」と題された対談を布団の中で読む。

 

・職場から電話ありオンライン面談の希望。洗濯。準備して接続。昼食にラーメン。

 

・午後は休み休み業務の映像制作の作業をしていた。本来ならば昨日までに終わっているはずだったから無念と思うが仕方がない。データ整理的な作業だから耳には自由が許されており、今年に入って聴いていなかった「OVER THE SUN」を流し聴く。あくまでも休日の気分で。少なくとも聴覚は休日。昼寝を挟む。先週届いた雑誌『写真(Sha Shin)』もパラパラしながら。業務連絡を送り、業務以外の滞っていた連絡もする。実家にも電話。これから灯油を買いに行く。今シーズンにあと何度灯油を買い求めることになるのかと思いながら、しかしGWくらいまでは意外に肌寒い日があるからまだ数回は必要になるだろうことを知っている。

 

・今日は自分の作業だけをしなかった。1/16から継続していた自分の作業は結果的に一日ブランクになった。