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  映像研究

火を灯すことについて

・帰宅する京王線では力尽き、翌日の朝に書いても良い。午前中は自分の作業/午後は業務というトレイルの5日目。朝冷え切った部屋のアラジンストーブに火を灯すことから一日がはじまる。冷え切った、と書いてみて、室温は12℃。部屋で過ごす温度としては充分に低いが、それでも高尾の平屋で暮らしていた頃は、起きて室温が0℃という時期が毎年あり、そうすると水道の蛇口をひねるとシャーベットという感じで、その環境と比較すれば、現在は、システムに守られた、一般的に「快適」と言われるような住宅で生活しているのだなとあらためて思う。どちらが良いということではない。

 

・この数日は業務で「面接対策」なるものをしている。一日に何人もと一対一で対話をして、話を聞き、のちに言葉を発するための準備をする。これはいったい何をしているのだろうかと考えて、同僚と話したりする。フレーズを準備して貰い、フレーズを脈絡に位置づけ、脈絡を声および身体で表現できるように準備する。そうして準備をして、しかし最終的には「自信を持って貰う」という大きな仕事がある。あるいはもう少しその前提として「元気になって貰う」というような仕事があり、「元気になって貰う」ためには、こちらもそれなりに「元気である」ことが必要になってくるから、そういえば最近は基本的に元気だった。業務上必要とされる種類の元気によって暖められながら、自分の生活があるのか。

 

・別の仕方で記述してみる。マッチ売りのイメージで、次々にマッチを擦ってぼんやりしたイメージを浮かばせ続けて、それを聞いている人が、そのぼんやりしたイメージを「はあ」とか言いながらうなずいていることから始まって、そのイメージが具体的にショットのような掴めそうなものに感じられたならば、空中で編集されてひとつの映像になる。それを二人で見る。「これどう思いますか?」とか言いながら。その映像を見ることは重要。しかし最終的には勢いあまってマッチを擦った火花が、聞いている人に燃え移ることが望ましいのではないか。そのようにして火が灯る瞬間があるように思う。いつ、何をきっかけにして、その火が灯るのだろうか。

 

・マスクをしている以上、目を見ることは重要。色々な発見と確認を持ちながら生活している。年末になった。