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  映像研究

寛容の練習

・書いておく火曜日。午前中に塾で授業を受けて午後は業務。移動の最中は読書が捗る。毎週横浜と渋谷を通過することも面白い。渋谷駅の地理はもう全然分からない。方向も高低も。余裕が生まれたら途中下車をしてみたいと思う。余裕とは。

 

・午後は業務を3時間。遅くなってほんとうにすいませんと書類をつくり連絡をしていたらあっという間に終わった。遅れている。遅れながらも新しい季節はじりじりと進んでいることを感じている。明日の最高気温は31℃。この場所はもうすぐに夏になる。気づけばもう春ではない。

 

・教育について考えている。「教える」という動詞の意味を分からない分からないと言い続けてこの年齢になった。確かに教育に関わる業務をしているが、教育についての教育を受けていないことがずっと気になって現在に至る。無免許。これからそのような公教育(?)を受けることも制度的には可能だろうがさすがにその余裕はなさそうだし特別に望むでもないから、今の自分に出来る限りの自習(調べ学習と質問の機会をつくること)をしたい。

 

・帰宅して夕食。しいたけを焼いてつまみながら鰤大根を煮る静かな時間。『あてなよる』を私的に再放送する。何度見ても新しい発見がある。

 

・考える。「考えることとは何か」と書いてある本を読みながら、考えることについて考えている。考えて貰うために考えているが、しかし「考えて『貰う』」もどうなのか。などと考えれば自分の考えは少しずつ変わる。いつでも数年前の自分が考えて言葉にしたことが最も信用に値しないと思う。その一方で十年くらい前に当てずっぽうで発した言葉が現在の探究を明るく照らすこともある。つまり色々ある。こんなにもぼんやり考えることが許されている。許されていると思う。

 

・自分の「許され」とは別に、最近考えていることは「寛容さ」ということの周りをめぐっているようでもある。教育について考えることは、自分の場合は「寛容さ」について考えることと通ずる。寛容な者でありたいと願いながらも、進むほどに偏狭にかたまることも感じている。一方で寛容さは何事にも拘りないことではなく、拘りをもちながらも開かれていることであるとイメージする。

 

・そうした寛容さのためには体力が必要。緩みも求められる。出来るならばユーモアも求めたい。最も自分から遠い世界としてのユーモアは身近な達人たちに学びたい。そしてそうした諸々の基盤として現在心身を鍛えようとしているのかもしれない。その練習として生活がある。メモとして。