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  映像研究

2021年の東京の夏の映像

・後から書いておく記録。午前中からざる蕎麦の昼食を挟んで午後少し作業。引き続き論文を書いている。

 

・午後新宿へ。ある写真の展示を観に行きギャラリートークを聞く。考えることが多い写真でありトークだった。がまだ考えがまとまらない。またいつか別の考えと共に書くことになるかもしれない。

 

伊勢丹の地下でギフトの下見などして帰宅。帰宅して夕食。

 

NHKオンデマンドで『ドキュメント72時間』を見る。「真夏の東京 幻のマラソンコース」という回。不思議な映像を見たという印象。『ドキュメント72時間』ではお店など多くの場合特定の「場所」が対象となり、そうすれば必然的に72時間のうちの営業時間外は映像の時間から消えるが、路上を対象としたこの回にそのようなブラックアウトは無い。文字通りの72時間、東京の路上の光景を写したのだろうか。

 

・「路上」が対象だったのだろうか。冒頭の「撮影することを警戒される場面」からはじまり、そして「移動している人にカメラを持ったチームが突然話しかける場面」が続き、どことなく不安な雰囲気が漂う。話しかけられる人もまた、その場所が「真夏の東京 幻のマラソンコース」だということなど忘れているだろうから、画面には「唐突に脈絡なく声をかけられた人たちの怪訝な表情(マスク越しの)」が映し出される。その映像を見ている自分もまた「これは一体なにを見ているのだろうか」と考えずにはいられない。

 

・インタビューの合間に挟まれる「マラソンコースに例えるとあなたは人生の今何キロくらいを走ってますか?」という質問も殆ど無意味で(その場所がマラソンコースだったかもしれないということを聞かされたところでその質問が投げられることに納得できるのだろうか?)、時間が進むごとに不可解な印象だけが増大する。そして『ドキュメント72時間』では、たびたび語られる、亡くなった者への言葉、家族を持たない者の家族への思いなどが語られて、いよいよオリンピックからは遠いところに連れてこられてしまう。

 

・後半に路上で生活されている方のインタビューがある。このインタビューが編集の、結果的に番組の核となったのだろうか。北海道から上京して東京の都市開発に関わったのちに今は働くことが困難になったというその人が、路上に座り「唯一の楽しみ」だというラジオをイアホンで聴く。故郷の北海道を走るマラソンの中継を聴く姿が映し出される。インタビュアーは「本当ならば目の前を走っていたかもしれませんね」というようなことを言うと、その人はそれに応答しながらも「(もしそうならば私は)ここにはいられませんよ」と発する。少し緩んだ表情と声の調子で。あの映像が撮れてしまったことであの番組は、もはや他のシーンがどのようなものでも良いと判断したのではないか、そのようにすら思えた。

 

・そもそも「真夏の東京 幻のマラソンコース」とは何か。ランナーが、ランナーを待つ人たちが、いたかもしれない場所を写すことにいったいどのような意味があったのか。「ランナーを待っていた人たち」が都合よく存在するはずもない。結果的にただの東京の路上が映った。そのことを思い出している。