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  映像研究

日記(問いと祈り)

・2019年5月10日(金)から5月13日(月)まで熊本へ旅行。友人たちで久しぶりに集まる。結婚式でもないのにこれだけの集合をしたのは友人のところに新しい人が生まれたからで、そのことを理由にして大集合してみた。関東や関西に住む5人がタイミングを合わせることに本気を出してみた。仕事に大きな支障が出ないような段取りをする。タイミングを合わせることはこの世界で最も困難なことだが、同時に本気を出せば大抵のことはできる。つまりタイミングは合う。

 

・10年ひと昔と言ってみて、それが本当に10年であることにぼおっとする。それぞれの友人たちが10年前に通じたならば山に行くことを媒体として、それぞれの人がそれぞれとの人と固有の関係を持つ。山行と飲食と会話が繰り返された。そして記録と共有。タイミングなどない。むしろ合いっぱなし(会いっぱなし)の状態。そして記録も記憶も残り続けたならばそれぞれに変化がある。とりたててそのことを確認することはないけれども、かつてに眩しい時間があり、そして今もまた別の/同じ輝かしい時間が生じているということを誰もが知っている。それを実感することについて考える。

 

・自分はそれを写真のことと関係づけて考えを進めている。みんなそれぞれに記録をするが、ipadで映像のメモのように写すこともありながら、GW690で写すことをそれとは別のこととして捉えている。何かが起こっている状態をどうすれば記録することができるのか。GW690が面白いのはそれが集合写真と相性が良いことで、このカメラを持ち行動することで集合写真を撮りたくなる。集合写真とは何だろう。同じ時間の中にいる人々が、シャッターが押される一瞬だけそれぞれの存在を明らかにすることと言えるだろうか。それは映像の問題としても提起できる。

 

・記録のことから離れて、過ごした時間を思い返せば、いつでも友人たちと会うことの中には謎も問いもあり、それからしばらく自分の生活の中で考え続けることになる。3泊4日の旅行はちょうどドキュメント約72時間。その時間の中で、見たもの、聞いたこと、食べたことから考える。友人は野菜や米を作っているからか、生活の行動のすべてが「作ること」へ向かっている。あるいは子どもがいると「育てる」とか「養う」ということへ向かっているように感じられる。起きている間基本的にはずっと。そしてその「作る」「育てる」「養う」行為が思考と結びついている。無駄が少ないように感じる。あるいは無駄は純粋な快楽として綺麗に消えている。そうした様子を感じることによって、自分の行為や思考の中にも別の感覚やリズムが入り込んでくる。

 

・そうしたことを考えていると、生活において他者との関係は様々であって良いと思うが、「パートナー」という存在は面白いと思う。(偶然にも)それぞれにパートナーという存在があることによって、その存在「について」話すことから、ここにいなかった時間がいきいきと描き出されるように思う。あるいはパートナーが発したという言葉が伝聞されることによって、場面が想起される。その場面を想像して、別の場面と重ねて、この場所にいる存在を強く感じる。サザエさんの家族たちの居間での会話はそれぞれが語り手であることによって成立している。誰もスクリーンを見せて指を指したりはせず語るだけであり、もちろんインスタグラムでお互いの様子を知っていたりはしない。

 

・当たり前のようにみんな違う。みんなちがって「みんな良い」かどうかはわからないが、みんなそれぞれの生活をしばらくは続ける。友人がふと「もしも震災がなかったらいまどうしているだろうか」と発した言葉を聞いて、本気で想像してみたがわからない。生活がより複雑になったからかもしれない。いくつかの植物が絡まり合って引いてみると一本の木に見えるように解きほぐすことは難しい。「パートナー」「子」「仕事」など、いくつかの要素とともに存在している。支えられているようにも感じられるし、引き裂かれているように思うこともある。これらはすべて「普通の」ことなのだろう事実にまたぼおっとする。

 

・焦らず(焦りながら)続けたならば、そのうちまたタイミングが合う。