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  映像研究

10日ほど時間が過ぎた

 
・時間が一瞬で通り過ぎて年末。2011年の終わり。過ぎ去った出来事。「出来事」について。2012年の目標。映像と社会について。映像と社会について学ぶことについて。「ことについて、というよりも『事について』と記したい件。クリスマス・プレゼントという物について。歌を歌うことについて。映画について。物語について。「と」について。「驚き」について。記しておきたい事柄はたくさんあるのだけれども、考えて、考えた事柄をまとめる前に次の、別の事柄に移り変わってしまう。そしてずっと継続して考えている事柄もある。労働をしている。労働の合間に考えている。今まで初めてくらいに「時間を有効に使おう」などと自分が考えているという驚き。今がまだ2011年で、その2011年にはあまりにも大変な事が起った、起ったにも拘らずあまりにも去年と同じような年末の業務を遂行している驚き。しかしいつよりもゆっくりと、色々なことを、自分が納得のいくかたちで進めていきたいと考えている驚き。ゆっくりと人と話ができれば良いのになぁと思う。それは「忘年会」という企画の中では難しいかもしれないけれども、いつか、きっと、落ち着いたならば、可能な限りの人と、ゆっくりとはなしがしたいと思う今日この頃。「速度の文化に対抗するために、もっともっと速度を上げる、という戦術(なのか?)に今ひとつ共感できない」という内容の電子メールを昨日遠くの友達に送った。そこで「速度の文化」と書き急いでしまった(急いで書いてしまった)その言葉で指し示したかったのは何だろう?あるいは今日の昼間に同僚というか後輩というかと話していた「教育における『サーヴィスの感覚』が生む弊害」という話はどこへ向かうのか。バラバラの事柄をつなぎ、組み上がったように思える事柄を解きほぐしていく。勉強をしなければいけない。「楽しい」という気持ちを忘れないように。いつだって「遊び」が自分の次の方向を指し示してきた。遊びを、どのように、何で遊ぶのかを自覚することが、自分のこれから先の、スタイルのようなものになるのかもしれない。ポスト・アーヴァン。そう記した人がいた。「物を語る」という意味での物語が、と書き始めた自分がいた。遠くに引っ越していった友達に渡した贈り物は小型のカメラで、その小型のカメラで新しい生活を撮影してもらいたいと思った。その映像を自分に見せてくれなくとも良い。その映像を誰にも見せなくとも良いのかもしれない。だけれどもしかし、その記録はある。記録された風景と言葉が、また別の言葉を話すきっかけになる。言葉は別の言葉のきっかけになる。例えばその言葉の連鎖のようなものをも「物語」と捉えるならば、物語に興味がある。「物を語る」という方法で、何かを記述する、何かを指し示す必要があるように思う。創作としてのフィクションと、記録としてのドキュメントの、そのどちらでもあるような、そのどちらでもないような、強いて言うならば「再現映像」のような物は一体なんなのかと思う。そういえば東京都現代美術館の『ゼロ年代のベルリン展』には、再現映像のような映像の作品がいくつかあって、あれはどんな気分だかトレンドだかを反映しているのだろう?と思ったけれども、それは「何かを記述する」「何かを指し示す」行為のようなことだったのかもしれないと(今考えると)思う。