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  映像研究

伝える

・202105272123。帰宅する京王線で記録しておく。空腹を感じながら。

 

・一週間ほど準備した授業の一日目が終わる。出来たこともあるが、基本的に反省が多い。ある歴史を伝えることの困難について。最も大きな課題は「自分が関心を持っている事柄を他者に伝えるときの情熱」をいかに抱えることができるか、ということなのではないか。歴史を語る(だけの)者が歴史を語ることの難しさあるいはつまらなさは、この問題に根がある。簡単に解決できることではないが、考え続けようと思う。

 

・しかし同時にその歴史というストーリーを聴く側にとって進歩史観のようなイメージが基盤にあるならば、歴史とは「乗り越えられた課題」の集積と思えるだろう。自らの課題にはなり得ない「過去の課題」。自分もある部分においては抱え持つそのようなイメージを越えることができるか。根本的な課題はいつも/つねに、今ここにあると考えることもできるのか。あるいはそれはそれであまりにも素朴な本質主義でしかないのか。自問する。

 

・制作する者/研究する者という二分に対してはいつも警戒的でありたいけれども、しかしどのような実践に接続するかという、短期的〜中期的な未来を見据えたレクチャーとしては、やはり歴史に対するアプローチは、少なくとも多様であるべきと言えるかもしれない。制作を客観的に考えると「個体発生が系統発生をなぞる=ある媒体が用いられた過去の表現を無意識にでも試みている」と説明したくなる状況があるが、その場合は自らの制作で歴史を語り直していることになるのかもしれない。それほどには単純でなくとも、実際に手や思考を動かすことが、過去に試みられてきた制作に接続されることはある。

 

・自分はある時期以降、そのようなアプローチから切り離されていることを思い出さなければならない。忘れないように書いておく。