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  映像研究

青い空2

 
・201810300829。自宅にて朝食を食べたり洗濯機を回したりしながらいつもより早い時間から作業を始めることにしてみる。なぜならやらなければならないことが増えつつあるから。


・昨日の清野賀子についてのメモの続きをまとめて「レポート」くらいにしてみたらどうだろうかと考える。論文的な文章とそうでないテキストを接続するための練習として。そのようなことを思い立ったのは、一昨日の夜職場の方と飲食して、勤務とは全然関係のない研究/キュレーション/活動の話を聞かせてもらい、刺激を受けたからだった。過剰な何かを抱えた人は環境や条件や状態がどうであれ、淡々と遂行している。あのような過剰さと落ち着きを自分は持てる気がしないが、しかし目線を遠くに置いて、やれなければいけないことを確実にできるように整えておこうと思う。そのためには練習が必要。


・そして写真を撮るということが必要だとあらためて思う。論文を書き終わってから、という悠長なことを言っている時間はないのかもしれない。カメラを持って、カメラだけを持って、もっと遠いところへ行きたいと思う。中断。


・夜中に再開。新しい何かを作ることとは。あるいはノスタルジーとは。過去に属していながら退行でないようなあり方は可能か。あるいは物質的イメージをノスタルジーに属するものではないと言える言葉はあり得るか。そのためには写真はかつてもその媒体固有の性質の元に表象を行っていたと、過去に遡って、歴史を書き換えるということになるのか。しかしそれは何のための?


・たとえば植物を育てること、土のような素材を手を使って造形すること、弦を震わせて音を発生させること、その意味と価値を考えたときに、映像について、スクリーンについて、データについて、2020年くらいの地点からそれを記述したならば、もう終わりにしても良いのではないか?といつも考えている。自分もずっと現実を見続けることはできないのだから、そうであるならば、自分の時間軸の中でやれることをやらなければいけない。作れるものを作らなければいけない。書かなければ忘れてしまうメモ。