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  映像研究

春の匂い

・春の春らしさは雰囲気的な意味ではなく知覚できる嗅覚としての匂いに依るのではないかと昼間の京王線に乗っていてふと思った。行ったことのない場所に行き、会ったことのない人と会う、その場所や人の匂いによって未知の感じに包まれる。流行しているウィルスのことが頭の片隅にあるのだろうか。人間の身体が物凄い勢いで物凄い量の呼気を発しているイメージで日常の光景を見るようになってしまった。あるいは毛穴という毛穴からその人の生命の活動に必要な熱と蒸気が出続けている。それに包まれそれを吸い込み生活をしている。そういうイメージ。

 

・引き続き諏訪敦彦『誰も必要としていないかもしれない、映画の可能性のために』を読んでいて、読みながら、時々休みながら「カメラとはどのような道具(テクノロジー)なのか」と考える。いま読んでいる箇所は建築家の青木淳という人との対話の箇所だから、カメラが捉える対象としての「空間」「場所」「家」ということが問い直され、さらにカメラが捉える対象としての「人」に対して、そうした「空間」「場所」「家」がどのように関わるかという問題が展開されている。自分は特に「カメラを手にして/ファインダーを覗き撮影する」という行為を気にしながら読んでいることもあり、たむらまさき(田村正毅)という人の仕事についても考えてみたくなった。確かかなり昔のインターコミュニケーションだったと思うのだけれども、青山真治という人がワークショップのような場面で、映画館の客席に人が入場してくる様子をたむらまさきという人が撮影する様子を記述しているエッセイがあったように記憶している。今もう一度読んでみたいという、これはメモ。

 

・全然違う映像についてのメモ。今年は「車を購入する」という新しい出来事を構想していることもあって、四度目くらいの『おぎやはぎの愛車遍歴』を見る波が来ている。過去の回をyoutubeなどで探して、家で食事をしている時など流し見ている。見れば見るほどにフォーマットとして完全に構築された番組だと思い、同時に映像としての面白さも時々訪れる。たとえば最近見たのはダチョウ倶楽部肥後克広という人がゲストで出演した回だが、自分がもう20年近く日常的にゴールデンタイムのバラエティ番組のようなものを見なくなったという理由もあるだろうが、それを差し引いてもなお、全然知らないただの一人の人が映像に現れている、というふうに感じる。これはむしろ多くの番組で採用されている「効果」なのかもしれないが、普段はスタジオのような場所での振る舞いを平面的に映し出されている人間が、「車に乗っている」という異なる状況に(見る者にとって日常的な、とも言えるだろうか)置かれている、ということ自体にある種の異化作用がある。車のコックピットに包まれた人間は、立体的に描き出されているように、そしてその作用-効果によって、平面の一部として見慣れることによって生じる(いわゆる)オーラのようなものが取り去られたように感じるのではないか。

 

・そして車とサーキットは過去を語る装置として機能する。「ああ、これこれ懐かしいなぁ~」とか言いながら、ハンドルの感触を確かめる。「この車に乗っていた頃はねぇ~」という語り出しは『愛車遍歴』の定番だが、その語り出し方でしか引き出されないエピソードと発話がある。カラックス『ホーリー・モーターズ』を引くならば、車とは舞台裏でありメイクルームであり、映像の光に対する闇である。そのような闇=生活の場所から言葉が語られることによって、どのような「芸能人」であっても、その存在は一つの身体に引き戻される。さらにはそうした語りは語る者の心象に過去のイメージを想起させるだろうが、その過去のイメージはウィンドウの向こうにかつて自分が見ていた風景として想起されるのではないか。しかしカメラが撮影するのは、その風景を眼差す「顔」のみである。

 

・たとえば一人の人が生まれてから長い時間を過ごしている過程で住んだすべての部屋を訪れることは現実的には難しい。しかし車という空間ならば、それが(疑似的であっても)可能であるというところに『愛車遍歴』のドキュメンタリーとしての価値と特殊性があるのではないか。たとえばこの『愛車遍歴』問題をロードムービーの問題と接続することもできるように思う。中断。