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  映像研究

講評

・201903071020。昨日は年度に一度の定例の発表会。自分が一年間どのような活動をしているのか発表してコメントを貰う。発表をすることもコメントを聞くことも(その場で)その後そのコメントを生かすこともすべてはちゃんとやろうとすると難しい。そして今年はなぜか発表をする人やコメントをする人の振る舞いが今まで以上に気になった。色々なことがバレるなと思う。自分の場合は「裏打ちがない段階だがとりあえずテーマを盛り上げようとしてみている人」であり「傾聴していることをアピールしようとしている人」であったというところだろうか。パフォーマンスではなく普通に行為することは難しい。過剰防衛転じて攻撃的な態勢を作ってしまっていたのかもしれない。前向きに反省をする。

 

・それは「講評」の場でもあった。美術学校用語としての講評。自分は18歳くらいから「講評」ということがつねにある生活をしている。美術学校と関係なく生活をしている人には講評はないのだろうか。たとえば大学ならば一つの授業につき年に数回、予備校ならば週に2~3課題、年間にすれば100回以上「講評」をしている。若い人(と言ってみる)ならば、そうした場を「公開処刑」などと言ってみたりするのだろう(理解はできる)。自分に視線が集まること自体がそもそも怖いからそれを分散させる。聴く人は聴く。聴かない人は聴かない。ぼんやりしているようでショックを受けている人もいる。そういう場がこの世界に存在する(発生する)。

 

・自分は普段「講評をする」ことに関してはつねに考えている、あるいは考えるまでもなくある空間で言葉を発するモードを持っている。声の調子によってクリエイトできることがあることも知っている。いくつかのアプローチがありそれを組み合わせることで「作品の前にいる作者」と対話ができると思っている。もちろんそのモード(体勢?態勢?)も反省されるべきだけれども。しかし「講評を聴く」ことにはまた別の準備が必要なのかもしれない。「うなずく」「メモを取る」とかはほとんどパフォーマンスのようになってしまう。しかしただの対話でもない。講評がその制作のプロセスを辿る(探索する、仮構する)ことならば、制作者もその行為に導かれて、この作品そのものではないことについて語り出さなくてはいけない。その際防御が強すぎると、語り出すことができなくなってしまう。

 

・発表終了後には専攻の人たちと飲食。同じ年の先生と年下の先輩に場外でコメントを貰う。それもまた貴重。だけれども「飲み会がすべて」でもない。オフィシャルな場で出来ることすべてをやりきった上での、また別の場(飲食)の意味が深まるのだと思う。