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  映像研究

たけのこ、たけのこの写真、写真

・202104292329。夜に部屋で書いておく。日記がようやく時の前線に追いついた。数日の調整を経て今日からはまた自分のための作業を行うことができる。

 

・午前中に、今日は祝日だから、毎週土曜日に手伝っているたけのこ掘りへ。予報では朝から雨だったけれどもほとんど降っていなかったから良かったと思い向かう。通って掘るたびに無駄な力を必要としなくなることが嬉しい。そして目が地面に馴染んでくるとたけのこを見つけることが簡単になることも楽しい。ある場所の地面をぐるっとまわりながら眺めて、光の差す具合や植物の生え方によって、別の角度からたけのこを見つける。見て、最初に鍬を挿した感触で、土の感じを知る。知って攻略する。掘り上げるとまた嬉しい。直売所の裏手に持って行って値札をつけようとしたならばお店の人に「たけのこですか?」と声をかけられたから「もしかしてもう出しちゃだめな感じですか?」とおそるおそる訊ねると「そうではなくてお客さんが待っているのでいそいで出してください」と言われて慌てて持って出る。今日は7セットが一瞬で消えた。この3週で4回。合計30セットほど「飛ぶように売れる」様子を見ている。趣味。

 

・今日も「たけのこの写真」を撮る。たけのこを写真に撮るのは日記に貼るためではあるのだけれども、何よりたけのこがフォトジェニックだからで、なおかつ、やはり「たけのこの写真」を写しているときには、中平卓馬がたけのこを写した写真のことが頭のどこかにある。単純に目の前に存在する物としてのたけのこ。それは「植物図鑑」というコンセプトに最もぴったりくる写真であると言えるかもしれない。中平卓馬のたけのこは「うれしそう」でもなければ「かなしそう」でもない。「生命のいきいきした様子」でもなければ「自然のたくましさ」でもない。ただ、たけのこがある。自分がたけのこを写しても、当然のことながら、そのようにはならない。春の、休日の、裏庭の、ちょっと良い感じの、ちょっと良い感じと思っている意識が透けている、イメージが映し出される。iPhoneに。

 

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・帰宅してパンケーキで昼食ののち論文の修正作業。今日は下準備でほとんど進まず。途中で友人の農園から野菜が届く。葉や豆がそれぞれの緑色で春らしい。それらを手に取りそれらの野菜が育った畑と自分が先ほどまでいた竹林を思ってみる。想像する。土のかたさ。温度や湿度。風景のひらけ。風。

 

・しばらく「写真」について考えている。考えているは嘘だった。考えるべく買っている。「写真について書かれた文章」つまり「写真論」を、ほとんど手当たり次第に片っ端から買っている。インターネットによるショッピングの危険性。検索から購入までが一直線。PDFをダウンロードする感覚で購入している。郵送されてくる。しかし罪悪感を感じることはやめた。そのために近年労働をしてきたと言いたい。

 

・手当たり次第に購入され、次々に積み上がる、各種の「写真論」の、全体の一部をぱらぱらしつつ、付箋を貼りつつ、少しずつ自分の研究の特性、可能性や固有性が自覚されてきた。そのことは嬉しい。たけのこを掘ることがうまくなることと同じように嬉しい。「写真を撮影することとはどのようなことなのか」という問いを立てることには意味がある。「写真とは何か」という問いを少しだけずらしながら限定してみること。なおかつ「現代のイメージの問題」というような枠組みを一度忘れることにも意味がある。たとえば福原信三の写真論に注目することは、そうした枠組みを忘れることに都合が良い。

 

・そうして、カメラという道具と、その向こうに存在するものを、その状況を、見ることを、考えることができる。

 

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