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  映像研究

半分仕事

・映画を集中的に見たい時期。『すばらしき世界』、朝からの回を鑑賞。『ディア・ドクター』を観て、こんなにもエンターテイメントでありながらしかし映画だというバランスが成立するのか、とかなり遅い気づきを得て以来西川美和という人の映画を気にしてきた。映画におけるあらゆる種類の演出が機能している。少しだけその「機能している」ことに対して不安を覚えるが、それも含めて作家性ということなのだろうか。不安は場所性が感じづらかったことによるかもしれない。見るべきものが明確に示される。フレームの中で物語を進めるべく出来事が起こる。そのような映像の力に導かれるままに、後半20分は映画館の最後列で震えながら声を堪えつつ見る。

 

・仲野太賀という人の芝居を映画で見たのは『桐島』以来なのではないか。「人を見ている人の顔」が印象深い。仲野太賀が役所広司を見つめるようにして、人が人を見ることがこの世界にはあるのだと思う。顔、全身、あるいは背中。それは祈りのようなもので、それは見つめる先にある他者の幸福を祈ることであるかもしれないが、それ以上に、というかそれとはまた違うこととして(しかしまったく別のことではない)、見つめる者自身が善く生きたいという願いが、端的に言えば救いを求めることが、あのような必死の眼差しを生じさせるのだろう。あのような「見ること」を見たくて映画を観ているようなところがある自分にとっては(これもある意味でのフェティッシュなのだろうか)、かなり高濃度の「人を見ている人の顔」がいくつかあった。

 

・労働することをはじめた役所広司に対して「この社会に生きる者たち」は色々と「助言」をする。しかし仲野太賀はそうしたことをしない。仲野太賀は役所広司に対して何かを与えられるとは思っていない。仲野太賀は役所広司を見つめることで「何か大切なことを知ることができるのではないか」と思っているのだろうか。「母を探す役所広司」を見つめることが、あるいはその視線を辿るように自分もその視線の先を一緒に見つめることが、「父を探す仲野太賀」の眼差しになる、とは図式に過ぎるだろうか。

 

・一方でそうした仲野太賀の眼差しをまったく共有しない者としての長澤まさみの態度も、それはそれで貫禄があり映画的な演出としては面白かった。過剰な意志を持ってしまったという意味では、長澤まさみ役所広司の存在に似ている。映画では完全に批判的あるいは否定的に描かれているけれども(揺るぎなく)、長澤まさみ長澤まさみで見る者としてのプロフェッショナルなのだろう。長澤まさみの発した「伝えろ」ということは、一体どのようなことなのか。それもまた「テレビが食い物にする」と単純に切って捨てることができるものではない、かもしれない。そして、ある人物の獣のような姿を写した映像を見ることは「その人の全てを知るために必要なこと」なのだろうか。その映像を見たくないと、あるいはそのような映像は見るべきでないと、そう思う者の感情は、この世界にどのように位置づけられるのだろうか。仲野太賀の眼差しを思い出しながらそう問うてみることもできる。

 

・ところで、『すばらしき世界』のすべての設定に何らかの西川美和のメッセージが通っているのだとして、では「カメラを捨てる」ことと「物語を書く」ことは、それぞれどのようなこととして考えられているのだろうか。テレビドキュメンタリーの予定調和(とんでもない事件が起こるところまで含めて想定の範囲内)を頓挫させたあとに、しかしある人の存在は、その存在を慈しむ者の言葉によって記録されるべきである、というメッセージだろうか。そう考えることもできる。

 

・というメモを調布の猿田彦で書いておいて、コーヒーとホットドッグ。昼から業務へ。午後は会議3.5h。その後打ち合わせ1h。からの半分雑談が2h。雑談は「ここが居酒屋だったらいいのに」と言いながら。人の話を聞いたり人に向かって話をする午後。帰宅したら『脚本家坂元裕二』と『ノベライズ花束みたいな恋をした』が届いていた。自分は物語を書くことはないが、物語が生まれる、ということに関して、業務上必要なことでもあるし、単純に自分がそれを考える・学ぶことを必要としている。のだから、ふと空いた時間には時々そのことを考える。「物語とは何か」「物語はどのようにして生まれるか」と。

 

・「物語があって映像があるのではない」とぼんやりした段階の考えを言ってみて、それはどのような意味で、その考えから何を考えることができるか。これはメモ。