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  映像研究

無題

・昨日(13日)は家で作業ののち散髪。新しい季節に突入する前に体勢を整えるような一週間。

 

・調布のイオンシネマ諏訪敦彦監督『風の電話』を見る。気づけば上映の最終日だった。前作『ライオンは今夜死ぬ』はDVDで見たけれどもできることなら劇場で見たかったと思っていたので駆け込みで見られて良かった。前作も死を思う映画だったが死者が見えるという設定/演出のせいもありその思い方はどこか抽象的だった。一方でこの映画では死者は一瞬の幻覚を除けば「見えない」し「現れない」。ゆえに「どこにいるの?」という言葉が、現在の具体的な場所に/ある身体を持ったあるひとりの人の声で響く。その「どこにいるの?」という声は叫びだが、同時に叫びとしてだけではなく言葉として、意味として「どこ=場所」に「いる=存在」いるのか?という問いかけとして聞き取れることで、その問いに対する答えのない思考が、映像の時間と並走していくように感じた。何度も同じことを問う言葉を聴く。「どこにいるの?」「なぜここにいないの?」答えのない問いを繰り返すことからは「はじまり」を見出すことは難しい。けれども移動することと他者と出会うことが思考を進めるのだろう。行き先のない歩み。この映画の時間は忘れるためあるいは解決するための出来事ではなく。むしろ正確に叫び=問い続けるための「はじまり」であるように感じた。

 

・写真と比べて映画を羨ましく思うのは「風が映る」ことであるかもしれない。風という現象を時間の中で感じられることの凄さ。

 

・モトーラ世理奈という人をファッション誌や英会話の広告で見たことはあったけれども、動いているのを初めて見た。映画は139分だが気づけばずっとモトーラ世理奈という人を見ていたかもしれない。そういう映画だった。「おい、お前大丈夫か」「ほら、もっと食え」と言いたくなる映画だった。 

 

・自分にとって2月は死を思う時間がある。そういえば今週末には法事があることを思い出す。業務がひと段落したこの時期に毎年命日があることを贈り物のようだと思うことは不謹慎だろうか。親戚が集まり食べ飲み近況を話す。正月がミニマルだからだろうか、こういう機会を貴重に感じる。いつからかほんとうに「有り難い」と思うようになった。生きている人間は食わなくていけない。食っているとつい「美味しい」とか「楽しい」とか感じてしまったりする。感じつつ、感じていることを忘れるほどこの身体と一体でありながら、同時に、その光景を遠くから見つめる視点があり得る。それは映像の役割のひとつだろうか。