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  映像研究

偶然

・後から書いておく記録。火曜日。今日も業務で少しだけ職場に行く必要があった。行く必要があったのは午後の早い時間だったから、映画館の朝の回を検索する。渋谷の文化村で『偶然と想像』を観る。期待していた通りに面白く観る。と同時にあまりにも「文句の付け所がない」ゆえに自分の中に違和感が残る。「隙」はある。むしろ「隙がある」ことも含めて「文句の付け所がない」と感じる。この映画に何を言うことができるだろうかと考える。そこで浮かび上がるのは、他の誰も関係がなく、ただ自分が映画に求めるものがあるということで、それは「偏り」であり、「フェティッシュ」でもあり、他者から見れば「滑稽」かつ「差別的」にさえ思われるかもしれない。「文句の付け所がない」映画を前にすると、そうした自分の映画に対する姿勢、あるいは作品と呼ばれる何かへの姿勢が明らかになる。言葉を発したならばそれを露呈させてしまう。そのようにして沈黙を選ぶ判断をする過程に、少しの窮屈さを思ったのだろうか。ここまで来ると映画それ自体とは関係がないのかもしれない。しかしいずれにせよ、この違和感を手放さないようにしようと考えた。

 

・映画や物語について考えていると、自分は実は「ハッピーエンド」や「勧善懲悪」を求めているのではないかと思うことがある。完全に「そうである」とも言い切れない。いずれにしても、映画の中で行動原理のわからない人間の振る舞いや発言を見ていると抵抗を感じる。あるいは単純にとても疲れる。この抵抗や疲れこそが重要なのだろうかと問うてみて、それは映画を鑑賞する入り口の「1時間目」のような問題であると思う。別の方向から考えれば、映画に登場する人物が悪と考えられる何事かを為しても、どこかに「自分にも理解できるような」(という表現が最適かどうかは保留)心理のようなものが感じられれば安心することができる。あるいはそのような「自分にも理解できるような」部分や地点を必死に探しながら見ているのかもしれない。そしてこれは自分の普段のコミュニケーションのアプローチとも重なるところがあり、そのベースには「人間は誰もそれほど変わらないのではないか」という考えがあるのかもしれない。その「人間は誰もそれほど変わらないのではないか」という考えをベースにした上で、「人は皆色々であり色々な状況において色々なことを考えている」という「上物」が乗っている、そういうイメージを持っている。

 

・『偶然と想像』には他者あるいは「他者性」のようなことが映っていたということだろうか。そのことに抵抗感をもったと、端的に言えるだろうか。もう少し考えて。

 

・映画に限らず普段の生活の中で「他者がない」「外部がない」という批判を想定しながら物事を考えているところがある。えてして自分が好む映画あるいは物語にはそのような批判があり得る作品もある(ように思う)が、完全に同じ考えを持っている人だけが登場するならば、そもそも出来事は起きづらいのだし、そもそも自分もそうした様子(同質性の中での戯れ)が見たいわけではない。しかし気を抜くと、そのような関係性に基づく物語を求めることも自覚している。そしてその批判は、自分自身の思考(の枠組み)に向けられることもあり得る。「偏り」であり、「フェティッシュ」でもあり、他者から見れば「滑稽」かつ「差別的」にさえ思われるだろうか、という言葉は、多分にエクスキューズでもあるのだが、少なくともそれを忘れないことで、少しだけ開いていられる。

 

・しかし一方で、「なぜそれほどまでに物語が『私とあなたは違う』ということに焦点を合わせなければいけないのだろうか」と疑問に思うこともある。わざわざそのことを強調する必要があるのだろうかと疑問に思う。それに対して、「『私とあなたは別々の個体である』という事実だけで良いではないか」と、「『私とあなたは別々の個体である』という事実を理解すれば、その先にあるのは共通点を探る方向しかないではないか」と、そのように考えているのかもしれない。

 

・『偶然と想像』の特に第一話と第二話に感じた違和感を思い出しながら、三つの話には「怒り(のようなもの)」が介在していたことに気がつく。過去のある事象が反芻されることで「怒り(のようなもの)」として沈殿している。あるいは「怒り」ともつかないような、倦怠感のようなものか。「自分が不当に扱われている」という感覚の蓄積が一人の精神を形成している。そしてそれがふと湧き上がることがある。発話や行動によって、とここまで書いてみて、これ自体は極めて普遍的な事柄であることにも気がつく。そしてそれが湧き上がる出来事は、他者との断絶になり得る。第一話と第二話はその断絶を(決して大袈裟にではなく)示していた。一方で、それが湧き上がることによって、関係の回路が生み出されることもあるのだろうか。まったくそれを意図せずに。第三話の後半を観ながら、そういうことを思っていたかもしれない。