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  映像研究

21℃

・202102211424。現在の東京多摩南西部は19℃。最高気温は21℃になるという。

 

・昨日の空白の一日を経て、なかなか自分の作業に戻れないでいる。細々(こまごま・ほそぼそ)とした業務についての事をしてしまって、気がつけば夕方と言って良い時間になってしまう。業務に関することの反省をひとりしていた。

 

・思考が停止する。

 

・書くことも読むことも、抜き書きすることも難しい状態がある。そんな時に「質問に答える頭」になっているように感じることがある。自分も含めて誰もが基本的には「自分の話を聞いてほしい」と思っているのだろうか。そして、そういえば、人の話を聞くことはとても難しいといつも思う。

 

・難しいと思うことは面倒だが、ある種のことに関しては、難しいと思い続けられることが、貴重なことでもあると思っている。というか、ずっとやっているから「簡単になる」「楽になる」というようなことの方が珍しいのかもしれない。「慣れる」という変化はあれども、基本的に「新たな課題に気づく」ことの連続でしかない。

 

・見ることも聞くことも、身体の気管としては一応ある時期以降ははたらいているのだろうが、どんどん変わってきている。「同じものを見ていても(聞いていても)/時を経ると知覚は深まっていく」というような考えに対して、自分はつい最近まで、そうした「言説」に完全に批判的だったかもしれない。あるいは否定的だったように思う。「見えるものは見えるものでしかない」そして「知識はまた別のことでしかない」と考えていた。しかし最近はまた違ったことを考えている。「知覚が深まる」という言い方が自分にとってしっくりくるかどうかはまだ詰め切れていないけれども、少なくとも、時間が経つと「知覚の仕様が変化する」とは考えるようになった。いくつかの理由が考えられるが、職場での「見ること」「見たものを言葉にすること」の経験は大きい。そして「『作られた何か』を見ること」や「『作られた何か』を作った人の様子を見ること」「『鑑賞する自分』を見せること」などを通して、たとえば「日常的なコミュニケーション」などと言われるような些細な行為であれ、非常に細かいニュアンスを交換し合っているのだということを、知り続けている。

 

・あるいは、たとえば、テキストデータを紙にプリントアウトした言葉はやはり「ちゃんとしている」ように感じてしまう。実際に書き手以外の他者の「読むこと」を一度通過しているであろうこと(編集)も関係しているだろうか。コンピュータの画面に表示される文字は少し違う。そして手で書かれた言葉は全然違う印象を与える。手で描かれた線や形や塗りも。テキストデータやフォントの印象に寄りかからないような文章を書きたいと思うことがある。その形式を流用あるいは盗み取っていることにならないようにと。

 

・「いくつかの理由」のうちの一つは、部屋に自分が撮影した写真を置いていること。

 

・「いくつかの理由」のまた別の一つは、食べることが生活の楽しみであること。

 

・「コンセプト」や「ステートメント」というような意識から離れること。あるいはそうした表現のあり方に疑いの考えを持つことも。

 

・たくさんの物事を見ることを諦めつつあること(ただし他の人が自分の知らない何かに興味を持っていることに好奇心を向けることは忘れずにいたいというこれは自分への注意として)。

 

・夕方に回覧板が届き、マスクと消毒用のジェルが家ごとに配給された。そのような特別な状況にあることをつい忘れてしまいそうになる。実家に電話をかけたならば、父親の命日の集まりは今年は約一ヶ月延期にするとのこと。その連絡をしたことで、去年の今日を思い出す。去年のことが断片的であれ書かれていることは貴重だと思う。毎日日記のような言葉を書くことの効能について。

 

ニュートンの『光学』という本が届いた。1642年に生まれて1727年になくなった人が1675年に書かれた文章を読むことができる。しかし「色」や「光」とは、何なのだろう。そして写真にとって欠くことのできないそれらの事をなぜ自分は今日まで、考えることなく過ごしてきたのか。

 

・去年の今日はiPhoneと知り合っていた。