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  映像研究

木とiPhone

・202002211800。家の近くのauショップにて。2年使っていた携帯電話をiPhoneに機種変更する手続き中。思い返せばモバイル・ツールを常に5歩くらい遅れて使い始めた自分が最初に手にしたのはポケベルだった。ポケベルからPHSへ。そして携帯電話からスマートフォンへ。その変化に対応しつつも微妙にいつも遅れる、その「遅れ」はモバイル・ツールへの恐れと批評的な距離を保ちたいという気持ちがあったかもしれない。そういうその距離に対する感じ方/考え方はそのままソーシャル・ネットワーク・サーヴィスに対するそれに引き継がれる。現代の生活において機種変更は選挙の投票に似ていると思う。数年おきに自分が何を基準に何を選ぶのか迫られる。思えば00年代中盤以降「iPhoneにだけは絶対に手を出すまい」と考えて「かつては何らかのカウンター的な思想がAppleに流れていたにせよ今やiPhoneが与党ならば急進的な野党とは何を選ぶべきか」という観点から可能性を探ってきた。結果、2000年から2020年までCASIOのGSHOCK携帯、スマート・フォン、ガラホ?などのシリーズとそれに類する製品を使うことで、何かの態度を示していたつもりであったけれども、そして、しかし、色々に思うところあって、つまり、当然わかってはいたのだけれども、与党も野党も見立ての遊びのようなもので、右も左も関係なく別のレイヤーで影響を与え続けているのがグローバルな企業というものであるのだから、そのような企業=環境が全力で普及させようとしているモバイル・ツールをを身をもって経験してみたいと思った。そして、高校生やそれに近い年齢の人たちが、どのようなデバイスで映像を視聴し、時に作品と呼ばれるものを発見・鑑賞しているのか。あるいはカメラで撮影し、編集し、場合によっては共有しているのか。そのような人たちの制作に介入する可能性があるのならば、そのような企業=環境=テクノロジーの感覚を知らなくてはいけないと思った。他にも理由はある。そうした理由を久しぶりに会った友人に近況報告も兼ねてプレゼンテーションするのは居酒屋トークの一環としては悪くない、そのようにして一番新しいiPhone11proというスマートフォンに機種変更してみた。今日からはMacBookiPadを背負い、iPhoneを腰に装着して生活をする。

 

auショップには次々にスマートフォンのことを相談に来る人たちがいて、その人たちを『ドキュメント72時間』的に観察してしまう。スマート・フォンあるいはモバイル・ツールに対する本質的な疑念は尽きない。ドゥルーズネグリの「管理社会」という語。「コミュニケーション」に対する批判。90年代後半にしてボードリヤールが「私たちは携帯電話を内蔵する存在になりました」と書いたこと。00年代に盛んに論じられたポスト・フォーディズムという問題圏におけるモバイル・ツールの問題。知覚の管理。身体の管理。時間の管理。環境の管理。管理をそのまま「支配」とも言い換えられるような。いったい誰が誰をどのように管理・支配しているのか。資本主義=ネットワークを理解し素描することもできるが、それを批判的に捉えて、何らかの議論を展開することは難しかった。あるいは既にその議論はベースになるトピックを人工知能に移してしまった。いずれにせよ絶え間なく誰もが自ら進んでネットワークに繋がれようとしている。その「繋がれる」ことを古典的な囚人の鎖のようなものとしてイメージしてしまう。auショップでもdocomoショップでもsoftbankのそれでも、次々に自らの鎖についての相談をしに来る人が後をたたない。そういうイメージを通して現実の光景を見る。鎖には様々なヴァリエーションがあり、選ぶこと自体が楽しい。鎖の材質や色に拘ることがトレンドなのか。家電量販店のスマート・フォン関連の製品の量に圧倒される。そのように考え続けているから、新しいスマート・フォンについて語る人を見ると、囚人が自分が繋がれた鎖について話しているように感じる。「他の人の鎖は鉄だけれども、自分の鎖は金でできているよ!」というような。そのような環境において、モバイル・ツールを持たないことは一種の超越であるかもしれない。あるいは引きこもりであるかもしれない。しかしこれもまた一つの見立てで、その見立て自体が古く、問題の本質を捉え損なうのではないか。そして「超越」や「引きこもり」を想定した上で、そうした場所から何らかの批評的な思考を立ち上げることができないのならば、その行為自体は「修行」のようなことであっても「表現」に繋がらないのではないか。

 

iPhoneのカメラを使い撮影をしてみる。ほとんど真っ暗な夜道でも3秒間カメラを固定すれば鮮明なイメージを得られる。デジタルカメラも数年新しい機材を購入していない自分にとっては少し新鮮な感覚があった。木を写す。家の前に立つ、立っていた木を撮影してみる。家の前にあった木が何となく好きで、何度もそれを写真に撮っていたが、今日突然(自分にとってはそれは突然だった)切られてしまった。昼に大きな音に気づきベランダから見ると既に枝が切られており、夜に帰宅した時には幹もばっさり切断されていた。すぐに根から引き抜かれるのだろう。木を切ることに対して抵抗感がある。木を切ることに対する抵抗感とは何か。木を切ることに対する抵抗感とモバイル・ツールやソーシャル・ネットワーク・サーヴィスに対する抵抗感とは関係がない。

 

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