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  映像研究

休日の作業と中断

・202201221851。作業をひと段落して書いてみる。久しぶりに一日を家で過ごした。「久しぶり」とはいかほどかと思い返せば、1/9(日)以来だから13日ぶりだろうか。途中一日母校の卒業制作展に行った先週の土曜日(1/15)だけ業務から解放されていたが、ともかく外出する日々が継続していた。外出には刺激が多い。刺激は大切。刺激は楽しい。刺激があってこそ表現ができる。しかし受容する側を休ませることも重要、と言葉と思考が道筋を敷いて自分を説得させる以前に、強制されたように、電化製品が必要な充電をするように、10時間の睡眠。22時に寝て8時に起床。ゆっくり朝食を取って10:00から休み休み作業して19:00前。このようにして半分は休息で半分は作業という一日が閉じようとしている。明日からはまたしばらく業務の日々が続く。

 

・窓さえ開けなかったからだろうか。まん延防止等重点措置のもとにあるせいか、いつもよりも静かに思える。このあとは、山から下界に降りるように、スーパーに買い物に行く予定。

 

・写真における「焦点」について考えて、書いている。書いているのは論文ではあるが、この「焦点」の問題は、自分にとってはもう10年以上前から考えていることでもあった。仮にこの問題を「被写界深度が浅い写真を見る経験はどのような知覚を想起させるか」「被写界深度が浅い写真を見る経験によって想起される知覚はどのような時間の観念と結びつくか」「被写界深度が浅い写真を見る経験によって想起される知覚が生み出す時間の観念はどのような生のあり方を求めるか」と展開してみて、しかしこうした問題を、かつての自分は2000年代の雑誌『ku:nel(クウネル)』を通して考えていた。ぼんやりした考えは具体的な形となることはなく、とはいえ自分の思考に居座り、長く居座ることで沈殿し、いま福原信三の写真について考えることで回帰する。不思議だと思う。自分はかつて何を考えていたのだろうか。

 

・ふとそのようなことを思って作業を中断して自分がかつて書いていた日記を読み返してみる。目に留まった一日。2009年の4月上旬にはひとりでテントを持って南伊豆へ行っている。海沿いのキャンプ場にテントを張り、翌日に「石垣りん文学記念室」を訪れていた。刺身定食を食べ、石垣りんさんの原稿を見つめ、温泉に入り、東京に帰る。帰ってきた足で友人と花見。いい生活だなと思う。羨ましいとまでは思わないが(良いことばかりではないことを知っているから)、その時期に、その年齢で、そのように重力から解放されたように暮らしていたことは、巡り巡って現在の何かの糧にはなっていると考えることができた。バトンを受け取っている感覚も無くはない。しかし何しろ文体は気色悪かった。

 

・同じサイクルを繰り返している時間の中で、時々このように「遠くまで来た」と思うことがあっても良い。中断。