・202108190921。朝。家で。午前中少し作業をする前の準備運動としてのメモ。久しぶりに朝から晴れて暑い。窓の外には緑。丘の丘の狭間の傾斜の途中に建つアパートから見える北と南の風景。いずれも夏の緑が強い影を含んでいる。見ることができるが触れることができない風景。その中を歩いてみたいと思えば山に行くべき。
・夏の業務期間が終わったならば山に行くという時期があった。2008年から2012年の間だっただろうか。涸沢。槍ヶ岳。八ヶ岳。双六岳。断片的に覚えている。いつかまたその場所に自分のからだがあることを願いつつ。
・昨日の昼にふと去年のまったく同じ時期の記録を読み直し、業務としては同じことを繰り返しているのだけれども、当然色々なことが違う。時世について。マスクをして、息を潜めるように生活していることは変わらない。しかし去年の今頃は「気をつけながら飲食」が今よりも可能だったようだ。コンパクトにだけれども打ち上げてもいた。一方で「オンラインによる業務」が比較的強めに推奨されていた去年と比較して、今年は「原則対面」という意識が浸透している。この小さな組織がこのようで、しかしそれは多くの別の組織にも適応されているのだろう。そして個人の意識が緩やかに方向づけされる。これでは難しい、ということがわかる。ではどうしたら良いか。問うてみても考えがない。
・別のこと。昨日の帰りの電車で「現実に『対比』はない」と考えていたことを、つまり「人間化しない」と、もう少し大きく言うことができるか。世界の全ての事象の人間の問題として考えることをやめること。人間が人間から離れる、より正確には、人間の思考が人間同士の関係性の領域から自由になる、そういうことを求めている自分がいる。その場合「政治的芸術」のようなものの意義はひとまず脇に置いて、作品もまた言説ではないと考えてみたい。言説ではなく存在。そう言えたら。
・写真や映像が触れているのはそうした「存在」であり得ることで、他の諸芸術も確かに現実の存在として知覚されるのだけれども、写真は存在が光によって定着された存在であるという特性がある。言説ではない。思考の反映ではあり得ない。情報とも言い切れない。選択の余地はある、と言えるか。必死にその「光=存在」を刈り込めば、物語ることは可能かもしれない。しかしそれはやはりイラストレーションなのではないか。そうではなく。
・カメラによって生み出された像が、現実に対して無分別であること。フレームの外は存在していると思うこと。フレームの意識(有無)は情報/存在の問題に関わる。大気(アトモスフィア)という言葉から、フレームとは別の「見ること」の範囲を考える。写真は写真であることによって、人の形の内に閉じられた「個人」を超える可能性を持つ。そう考えてみて。その魅惑とその恐ろしさについてもこれから考える。