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  映像研究

ぬるい

・202107251801。今日の作業を閉じる前にもう少しだけ、と思いながら中断してこうして書いている。短い論文の序論部分の荒書きが終わった。感触としては作業全体の3~5%。これを10%まで持っていけないか。一般的には国民的行事に伴う四連休の最終日だった。自分はちょうどワクチン接種後の休養期間四日間の最終日。業務の授業がない一週間の最終日。一週間授業をすれば再び夏休みになる。とはいえ貴重なこの期間の終わりを「・・・」という気持ちで迎えてもいる。

 

・朝は快適な作業をする部屋も昼からは熱帯感が増し夕方にはソフトなサウナのようになる。それは大袈裟だった。体感的には体温と同じなのではないか。それを「ぬるい」と表現する。身体の内と外の温度が近づくということは、内と外の境界が曖昧になることとも考えられる。輪郭が不確である状態。存在が確定できない。転じて不充分であることを「ぬるい」と言うのは何故かと考えて、それは、当の表現や主張の輪郭=存在が明らかでないことに依るのではないかと考えた。考えた、と言って、それほど真剣に考えているわけではない。モノクロームの写真の階調が少ないことを「眠い」と表現することは面白い。

 

・「これは〇〇を擁護するものではありません」と但し書きがされているのを読むと、これは意地の悪い指摘であるかもしれないけれども、それが「これは〇〇を擁護するもの」であることが示唆されている、と感じる。言葉は、文章は、難しい。「エクスキューズ」が反転した意味のタグになっている。あるいはその機能を理解しつつも、やむを得ず、あるいは積極的に、表現や主張を曖昧にするために用いられている。以上の指摘はしかし自分の言葉や文章を点検する意図で書いている。という、これもまたエクスキューズだろうか。

 

・自分が文章を書くときには、一切の「ぬるさ」を排した書き方を心がける。言葉を選ぶときにも、研ぐときにも。

 

・家のすぐ裏を自転車が走り去ったらしい。昨日は男子。今日は女子。積極的に拒否したつもりもないが観にいくことはなかった。Youtubeには既にその様子がアップロードされていたから少しだけ見た。自分の知っている風景(中央図書館の前の道)に大勢のスマートフォンをかざした人びとが存在する映像。それを見る。

 

・昨日本屋で買い求めた『ブルータスカーサ』、これはこれで2021年の都市生活者の欲望の結晶という感じの写真が迫り来る。山や湖の畔に身を置きたいと願う。『暮しの手帖』の益子特集も良かった。写真を通じて自然=生命を知覚し、それとひとつになろうとする心の動きについてならば、それを考えて、書くことで解消されることも、部分的にであれ、あるかもしれない。

 

・中断。