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  映像研究

第四回

・オンラインでの会議2本。そういえば法事で岡山にいたかもしれない並行する世界の自分と家族を想像する。行きののぞみで缶ビール。夜には鰆を食べたかもしれない。現実の今夜は週末のレギュラー番組としての山部オンライン・ミーティングがついに4回目。瞬間最大人数7人。毎週増える。東京、神戸、熊本、秋田が映像と音声で接続される。定期的に継続することで深まる会話がある。昨夜は農業で生活する友人から「種苗法改正」についての話を聞く。作ることと生活がひとつに結びついている人の思考において、政治や経済における法の動きははっきりと掴むことができるのだろうか。あるいは何かを育てることが自分が生きる時間の中に幾重にも含まれていることから、人間の生き死にを超えた時間を想像する力を得ているのだろうか。自分もまた生活するこの点から見える限りの政治と経済について言葉を発する。正直でありたいと思いながら言葉を発する。言葉を発することによって確かな考えに近づくようにと願う。これが普通の会話だった。10年以上に渡って、この人たちが聞いてくれている中に言葉を投げてみることから、自分の考えが生き生きと動きはじめたという実感がある。専門的な学問の場でも実践としての業務の場でも得られない種類の抽象的かつ具体的な言葉の尖り方がある。後半は「何を美しいと思うか」について話を続けた。自分はその問いに対して、発見=批判、というような思考の動きとして考えている、と応える。形態や光の衝撃だけでなく、思考そのものの抽象的な完成でもなく、問うことと信じることが重なり合う意識に「美」に通じるものを想定する。「これは何だ」と指を差すような動き、あるいはその指の動きに引かれるように別の誰かが身を乗り出すような動き、その二人がふと顔を向き合って確かめ合う瞬間、通じたことが「わかる」瞬間、そういう出来事を「美」の概念に近しいものとして考えている。そういう事を必死で話した。あとで振り返ってみれば、その「問うことと信じることが重なり合う」とは、自分にとっての映像の問題の中心かもしれない。カメラという半自然的な装置と生命がどのように結ばれるのか。そのカメラによって獲得されるイメージを何のために見るのか。そういう問題を考え続ける、というよりも、そういう問題の輪郭を描くためには考え続けなければいけない、と思っている自分にとって、この夜のような会話が思考を更新するきっかけになる。また来週、と約束して就寝。